1.はじめに
2024年の最初の日に、このように共に御前に集い、共に神様を賛美し、御言葉を受け、祈りを捧げ、2024年という新しい年を始めることが出来ますことを嬉しく思います。
新年を祝うということは旧約の時代から行われてきました。旧約時代の暦と私共の太陽暦は違います。ユダヤにおける新年は、私共の9月あたりになります。これはユダヤの暦では第7の月に当たり、その一日に新年の祭りを行いました。民数記29章1節に「第七の月の一日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。角笛を吹き鳴らす日である。」とありますが、これが私共の言う元日の守り方でした。「角笛を吹き鳴らす」ので、「ラッパの祭り」とも呼ばれていました。そして、その月の10日はユダヤ人にとって一年のうちで最も厳粛な、悔い改めと神の赦しを求める「大贖罪日」でした。大祭司が至聖所に入ってすべての神の民の罪の赦しを祈る日です。この日には病人や高齢者を除くすべての民が断食をしました。そして、15日からは7日間にわたる「仮庵の祭り」。これは「過越の祭り」「刈り入れの祭り」と並ぶ三大祭りの一つでした。色々申し上げましたが、元日は旧約の時代から、神の民においては、すべての仕事を休み、礼拝をする日だったということです。元旦礼拝、元日礼拝というものについて、日本では初詣をするので、キリストの教会も何かしないと、と思って始まっているわけではないということです。
ちなみに、1871年(明治4年)の末から翌年1月の第1週にかけて、年の初めの初週祈祷会と呼ばれるものが行われました。これは主に横浜に住んでいる外国人たちが開いたものですが、そこにJ.バラ宣教師に英語を習っていた青年たちが出席します。そして、この参加者の中から9名の受洗者が与えられ、更に1872年(明治5年)の3月10日に、先に洗礼を受けていた2名を加えて合計11名で、日本における最初のプロテスタント教会である日本基督横浜公会、今の横浜海岸教会が誕生いたしました。その数年後にヘボンたちによってここから分かれて立てられた長老教会が、現在の横浜指路教会です。
このように新しい年を、御言葉を受け、祈りをもって始めるということは、旧約以来の神の民の伝統ですし、日本の教会にとっては、その出発を記念する意味もあるということになります。私共は2024年を始めるに当たって、色々な願いや思いを持っています。そして、「平和」を願うことはきっと共通しているでしょう。また、家内安全という思いもあるでしょう。その思いは大切です。しかし、その思いや願いに先立って、私共は神様の言葉、神様の思いを聞きます。それを聞いて、それに応えて祈る。私共の祈りは、自分の願いや思いを一方的に神様にぶつけるようなものではありません。神様の言葉を聞いて、それに応える祈りです。それは、神様との交わり、神様との対話だからです。
さて、今年最初に私共に与えられた御言葉は、コリントの信徒への手紙一の16章13~14節です。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。」順に見てまいりましょう。
2.目を覚ましていなさい
まず「目を覚ましていなさい」です。これはイエス様が十字架お架かりになった前の晩に、ペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人の弟子と共にゲツセマネの園で祈られた時、弟子たちに告げられた言葉と同じです。あの時、弟子たちはイエス様が「目を覚ましていなさい。」と告げたのに、そこで眠りこけてしまいました。三度も繰り返し、弟子たちは眠りこけてしまいました。この時、イエス様は「アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られました(マルコによる福音書14章36節)。弟子たちにとって、このイエス様の「目を覚ましていなさい。」との御言葉は、眠らずに祈っていなければならなかった時にそれが出来ずに眠ってしまったという思い出、そしてイエス様の十字架の出来事と共に、「目を覚まして祈っていなさい。」という意味で心に深く刻まれていました。そしてそれは、この言葉をイエス様から告げられた弟子たちだけではなくて、「目を覚まして祈っていなさい。」という意味でキリストの教会全体に共有されてきた言葉でした。
そして、この言葉は次の「信仰に基づいてしっかり立ちなさい。」と、ほとんど同じ意味と受け止めてよいでしょう。「目を覚ましている」ということは、「祈り続ける」ということであり、それは「信仰を眠らせない」ということです。どのような時でも、信仰に基づいて、信仰に立って、思いを巡らし、事柄を判断し、何をどのようにしていくのかを決めて、行動していくということです。勿論、「こうした方が上手くいく」といった現実的な判断は大切です。しかし、その場合でも信仰に基づいてということを忘れるわけにはいきません。結果が出るなら、どんなやり方をしても良いというわけにはいきません。まして、何のためにそれを行うのか、何を目的としてこれを行うのか、そのことについてはしっかり「信仰に基づいて」いなければならないということでしょう。それが、キリスト者としての私共の日々の生活ということです。
「信仰に基づいて、目を覚ましている」ということは、別の言い方をすれば「神の御前に立って」ということになるでしょう。私共は「キリスト者なのだからこうすべき」というように考えがちです。しかし、私共が日々の生活、人生の歩みの中で、単純に「キリスト者なのだからこうすべき」ということで決められることなんて、あまりないのではないかと思います。もう40年以上前のことですが、私がまだ神学校に行く前のことでした。一緒に教会学校の教師をしていた私より少し若い青年から、ある時「教会学校の教師を辞めようと思う。」と言われた時がありました。何か事情があったのだと思います。その時、私は「イエス様の御前でそう決めたのなら、それで良いんじゃない。」と応えました。その青年は「もう少し考えてみる。」と言って、結局、その青年はそれからも教会学校の教師を長く続けました。私共には色々な事情がありますし、他の人がそれを理解することは中々出来ません。しかし、イエス様はすべてを御存知です。そのすべてを御存知で私のために十字架にお架かりになったイエス様の御前で、こうするのが御心に適っているのかどうか尋ねる。そのことが何より大切なことなのです。それは自分の都合が最優先ではないということです。神様の御前で、イエス様の御前で、顔を伏せることなく、どうしたら良いのか尋ねる。そして、道を示されたなら、顔を上げて歩んで行くことです。それが、次の「雄々しく強く生きなさい。」に繋がっていきます。
3.雄々しく強く生きなさい
この「雄々しく強く生きなさい」という勧めは、信仰に基づいて、キリスト者として、神様の御前に立つ者として「雄々しく強く生きなさい」ということです。これは、威風堂々ということとは少し違います。私共は威厳もありませんし、強くもありません。それで良いのです。勘違いしてはいけません。この「雄々しく強く」というのは、「主にあって」雄々しく強くということです。私共自身が自らの力と能力によって、雄々しくあれ、強くあれと聖書は告げているわけではありません。私共は自分に自信を持っていたり、自分が力を持っているわけではありません。私共は弱く、愚かで、小さい者です。それを強く、賢く、大きな者だと勘違いしてはなりません。強く、賢く、大きなお方は、神様・イエス様です。私共は弱く、愚かで、小さい者です。それで良いのです。
皆さんはこの御言葉を聞いて、神様がヨシュアに語られた言葉を思い起こされるでしょう。ヨシュア記1章5~6節「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」とあります。神様が「強く、雄々しくあれ」とヨシュアに語られた時、その根拠は「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」ということでした。私共が「雄々しく強く」生きられるのは、神様が私共と共にいてくださり、道を開いてくださり、支えてくださり、導いてくださるからです。だから、私共は安心して、何があっても、たとえ自分を見失うほどに動揺してしまうようなことがあったとしても、大丈夫だと言い切れる。聖書が告げているのはそのような雄々しさと強さです。神様がそのようにあることが出来るようにしてくださるからです。
2024年、何が起こるのか、私共には分かりません。ここ数年は、コロナ禍があったり、ウクライナ戦争が起きたり、イスラエルで戦闘が始まったり、本当に予測出来ないようなことが次々と起きました。今年も何かが起きるのでしょう。それは世界的なことかもしれませんし、極めて個人的なことかもしれません。しかし、神様は私共と共にいてくださいます。そして、私共を守り、御国への歩みを確かなものにしてくださいます。そのことを信頼するが故に、私共は「雄々しく強く」あることが出来ます。
4.何事も愛をもって行いなさい
そして、そのような歩みを為していく私共の歩みの基本は「愛」です。愛によって、愛をもって事にあたっていくということです。私共は独りで生きているわけではありません。家族もいれば、同僚もいるし、友人もいます。ここで私共は、家庭でも、職場でも、「愛をもって事にあたる」ように勧められています。ただやれば良いというのではありません。あなたはキリスト者なのだから、神様に愛されている。徹底的に愛されている。その愛を隣人に注いでいく。そのような務めを与えられている者として、家庭に、職場に、地域に遣わされているということです。
あまり自覚していないかもしれませんけれど、私共は家庭や職場や地域において「キリスト者」として周りから見られています。特に家族の目は厳しいかもしれません。そのような中で生きている私共に「何事も愛をもって行う」ように勧められています。この愛は気持ちの問題でもありますけれど、気持ちだけのことではありません。聖書の告げる愛は、心の中だけのことではありません。言葉や行いを伴うものです。もしそのような所に現れてこないとすれば、私共は「愛すること」についてもっともっと学ばなければなりません。愛すること、愛に生きることは、簡単なことではありません。それはイエス様に倣い、イエス様に従っていくことだからです。ですから、私共は生涯、愛すること、愛されていること、愛の交わりを形作ることを学び続けなければなりません。ここでも大切なことは、イエス様は私に何をしてくださったのか、イエス様は私にどのように語りかけてくださったのか、それをしっかり受けとめることです。愛と反対にある秤は「損得勘定」という秤です。愛は損得勘定を退けます。損得勘定で測られることを拒否します。損だ得だと言いだしたら、愛にはなりません。しかし、この世界で最も幅をきかせている秤は、損得勘定です。損得勘定の出来ない人はバカだと言われます。しかし、そんなことを言ったら、世界で一番バカなのは神様・イエス様ということになってしまいます。これは変でしょう。
「神は愛」ですが、この愛の神様が具体的な人間として来てくださいました。ヨハネはこう告げます。ヨハネの手紙一4章10~11節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」勿論、私共はイエス様のように完全に愛に生きるということは出来ないでしょう。しかし、この「どうせ出来ない」というところに胡座(あぐら)をかくことは許されません、それでは、イエス様の十字架を無駄にしてしまうことになるからです。イエス様の十字架が何の力もないことを証明することになってしまうからです。しかし、私共はイエス様の十字架がどんなに力ある出来事なのか、神様の愛はどんなに現実的なものなのかを証しする者として召され、立てられ、遣わされています。このことを真っ正面から受け止めましょう。神様は私共を造り変え続けてくださり、ここに愛の神様がおられることを示そうとしてくださっているのですから。
5.神様の保証
今朝、私共は「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。」との御言葉を与えられました。聖書が、神様が、そのように私共に勧めてくださいました。ここで再び確認します。神様は天の高みにおられて、無理難題を私共に押しつけるお方でしょうか。そうではありませんね。神様が「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。」と告げられる以上、それが出来るように私共に信仰を与え、力も与えてくださり、私共を守り、支え、導いてくださるということです。私共の神様とは、そういうお方です。天の高みでじっと見ているだけの神様ではありません。クリスマスに何が起きたでしょう。天の高みから、神の御子が、天を引き裂いて地に降って来てくださいました。その熱情をもって、神様は「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。」と私共に告げてくださいます。この御言葉に従って歩んで行こうする私共に、神様は必要のすべてを必ず満たしてくださいます。そして、出来事をもって導いてくださいます。
私共の為すことには欠けがあるでしょう。至らぬことも多いでしょう。しかし、目を覚まして祈りつつ、信仰に基づいて、神様・イエス様の御前に立って、神様が共にいてくださることを信頼して、愛をもって何事にも対処していく。その時、神様が必要な信仰と知恵と力と、何よりも愛を注いでくださいます。そして、出来事を起こし、道を開いてくださいます。そのことを信頼して、安んじて新しい2024年に歩み出してまいりたいと思います。
お祈りします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様は2024年を始めるに当たって、私共に御言葉を与えてくださいました。ありがとうございます。私共が、この新しい年も、あなた様に愛され、救われた者として、あなた様の子としていただいた者として、それぞれ与えられた場において、あなた様と共なる歩みを為していくことが出来ますように。目を覚まして祈りつつ、信仰に基づいて、愛をもって歩んで行くことが出来ますように。主にあって、強く雄々しく歩んで行くことが出来ますように。時に応じて、必要のすべてを備えていってください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2024年1月1日]