日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「悪をもって悪に報いず」
詩編 34編9~17節
ペトロの手紙一 3章8~12節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
1月1日の元日礼拝の後、能登半島地震が起きました。16年前の能登半島地震の時とは比べものにならないほどの大きな揺れでした。今までの人生で経験したうちで、最も激しく、長い揺れでした。皆さんも怖い思いをされたことでしょう。幸いなことに富山市内では、注意深く見れば地震による家の壁のひび割れとか道路の段差とかありますけれど、それほど目立った被害は出ていません。あれから6日経ちます。まだ時々揺れが来ます。富山でこれだけの揺れならば、輪島や珠洲では震度4とか5の揺れが来ているのではないか、被災した人たちはまた怖い思いをしているだろう、と心が動きます。
 地震の次の日に、元日礼拝での御言葉を思い出しました。「2024年、何が起こるのか、私共には分かりません。ここ数年は、コロナ禍があったり、ウクライナ戦争が起きたり、イスラエルで戦闘が始まったり、本当に予測出来ないようなことが次々と起きました。今年も何かが起きるのでしょう。それは世界的なことかもしれませんし、極めて個人的なことかもしれません。しかし、神様は私共と共にいてくださいます。そして、私共を守り、御国への歩みを確かなものにしてくださいます。そのことを信頼するが故に、私共は『雄々しく強く』あることが出来ます。」と説教の中で告げられました。主が共にいてくださり、守り、導いてくださる。だから大丈夫。そう自分に語りかけました。そして、被災された方々のために祈るという使命と責任がある、この使命と責任を果たしていかなければならないと思わされました。
 きっと皆さんも心配されていることと思いますので、現時点での能登半島にある日本基督教団の教会の被災状況をお知らせします。輪島教会は礼拝堂が使用出来ない状態です。多分、建て替えなければならないでしょう。牧師館は、隣の家が倒れてきて壁に大きな穴が空いてしまいました。幸いなことに人的な被害はありませんでした。ただ、教会員の多くが家を失うなどの被害を受けました。牧師は、地震のあった日から避難所で生活しています。今日の輪島教会の礼拝は、避難所で聖書を読んで祈るという形で行うとのことです。七尾教会と七尾幼稚園は、避難所として最初の日は100人ほどの人を受け入れたそうです。七尾教会と七尾幼稚園は、2007年の能登半島地震で建て替えましたので、今回は建物に目立った被害は出ておらず、緊急避難所として用いられたことを感謝しておられました。人的な被害も出ておらず、水・食料なども必要な量は届いているとのことです。それ以外の教会では目立った被害は現在報告されていません。富山県にある教会は被災していませんし、人的な被害も出ていません。
 どうぞ、被災された方々のためにお祈りください。私共の教会としてどのように支援していくのかは、礼拝後の長老会で話し合います。

2.「終わりに」
 さて、今朝与えられている御言葉は「終わりに」と始まっています。これはペトロの手紙一の「終わりに」ということではありません。2章11節から続いてきた「勧め」の部分の「終わりに」ということです。ペトロは、この手紙を受け取る人たちを思い浮かべながら、この手紙を書いています。ここまでに、「皇帝や総督に服従しなさい。」「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。」「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」「夫たちよ、妻を尊敬しなさい。」と告げてきました。そして「終わりに」です。ここで告げられる勧めは、具体的な人に対して告げられていません。それは、この手紙を読む人、つまりこの手紙が読まれる教会に集っている人のすべてに対して告げられているからです。それは、すべてのキリスト者に対して告げられている、そのように受け止めてよいでしょう。
 今まで「勧め」を告げてきたことの根拠は、イエス様がそのように歩まれたからということでした。2章22節以下「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」これが根拠でした。このイエス様と一つに結ばれ、このイエス様によって救われたのですから、この方に倣って歩みましょう。それがここで告げられている「勧め」です。

3.心を一つに:愛によって
 そして、その最初に告げられていることは「皆心を一つに」するということです。当時の教会に集っている人たちは、奴隷もいれば、奴隷を使っている人もいる。男もいれば、女もいる。裕福な者もいれば、貧しい者もいる。人種的にも多様性があったでしょう。社会的な立場もそれぞれでした。しかし、イエス様によって救われた。神の子とされた。それはみんな全く同じです。そこに立つならば、心を一つにすることが出来る。逆に言えば、それ以外のことを言いだせば、決して心を一つにすることなんて出来ない。それが、人間の集まりというものでしょう。
 イエス様によって救われたということは、神様の愛・イエス様の愛を知ったということです。そして、その愛を注がれた。その愛によって「同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く」なることが出来るし、そうしなさいとペトロは勧めているいるわけです。皆が心を一つにする愛は、私共の中から自然に湧き上がってくる愛ではありません。私共の中に自然に湧いてくる愛は、親子であったり、家族であったり、近しい者に対してのものでしょう。あるいは、趣味が同じとか、考え方が同じとか、そういう所に生まれるものです。しかし、キリストの教会に集う人は、そのような所では全くバラバラです。そのバラバラな者たちが愛によって一つになるとするならば、それはイエス様・神様によって注がれた愛によってです。その愛によって私共は一つとなれるし、一つとなりなさいと勧めているわけです。
 今私共は、能登にある教会の人たちと「心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く」あることを求められています。

4.謙虚に
 そして、聖書は「謙虚になりなさい」と続けます。私共の救いの根拠は私共の中にはありません。ただ、神様・イエス様の憐れみによって救っていただいた。ですから自ら誇る所なんてありません。ここに立つ時、私共は「謙虚」にされます。このことを忘れてしまえば、私共はすぐに「自分は大した者だ」と勘違いしますし、人を見下しますし、人と人とを比べて「ああだこうだ」と言い始める。本当に困った者なんです。それでは「心を一つに」することは出来ません。心を一つにするために必要なことは、謙虚であることです。そして、これもまたイエス様・神様によって与えられるものです。こう言っても良いでしょう。人は神様・イエス様の御前に立つ時、謙虚になる。それは、神様・イエス様の御前に立つ時、ただ神様の憐れみによって救われた自分、新しい命に生きる者とされた自分、神の子としていただいた自分、この現在の自分はただ憐れみ、ただ恵みによることをはっきり知らされるからです。この「謙虚」という心は、礼拝の心です。皆さんは今、とても謙虚なはずです。自分は大した者だとも思わず、人と比べてもいないでしょう。神様の御前に立っているからです。私共は、主の日にここに集う度に「謙虚」である心を与えられている。「謙虚」であることを学び続けているわけです。

5.悪をもって悪に報いず
 次にキリスト者に求められているのは、9節「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。」ということです。これもまた、イエス様が十字架へ歩まれた時の姿を思い起こせば、聖書が「イエス様がそうだったように」ということを告げていることは明らかでしょう。イエス様は、イザヤ書53章で預言されたように、「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」のです。人々が「十字架につけろ」と叫んでも、兵士たちが「葦の棒で頭を叩き、唾をかけ」ても、「メシアなら、自分を救うがよい」と罵られても、イエス様は口を開きませんでした。そのイエス様と一つに結ばれた者ではないか。そう聖書は告げます。
 しかし、これは本当に難しいことです。言われたら言い返す。売り言葉に買い言葉です。そして、やられたらやり返す。これが自然な心の動きです。時には、「倍返しだ」と言わんばかりに言い返したり、やり返したりする。そうしないのは、「意気地がない奴だ」と言われる。「弱い奴だ」と思われる。そんな社会の現実の中で生きている私共です。私も子どもの頃、小学校の低学年だったと思いますが、いじめられたと泣いて帰ると、父に「やり返してこい」と言われて、逆に叱られました。「やり返してくるまで、家には入るな」とまで言われ、それでも私はやり返すという度胸もなく、家の近所を何度か回って帰ったのを思い出します。私は弱虫で泣き虫でした。ただの意気地無しでした。しかし、聖書はここで、私共に意気地無しになりなさいと言っているわけではありません。

6.祝福を祈る
 聖書は「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。」に続けて、「かえって祝福を祈りなさい。」と勧めるのです。これは度外れています。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。」だってとても出来ないと思うようなことですけれど、自分にひどいことをした人、侮辱した人に対して、仕返しをしないどころか、その人を祝福しなさい、その人のために祝福の祈りを捧げなさいと告げるのです。これは度外れています。度外れた勧めです。しかし、イエス様の十字架は、自分を十字架に架けた人たち、自分を侮辱した人たちの罪の贖いとなるためのものでした。「イエス様に倣う」というのは、そこまで従って行くということなのです。
 このペトロの言葉の背景にあるのは、イエス様が告げられた言葉です。少し長いですがお読みします。マタイによる福音書5章38節以下「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。… あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」このイエス様の言葉を弟子たちは真剣に、まともに正面から受け止めました。そして、この言葉に従って生きる共同体こそ、キリストの体と言える存在なのだと信じた。イエス様が宿り、聖霊なる神様の導きの中で、そのように生きる者へと変えられ続けていく者たちの群れ。それがキリストの教会なのだと信じていました。こんな言葉は現実的ではない。こんなことは出来るはずない。そう言って、イエス様の言葉を捨ててしまえば、一体どこにイエス様の御心は現れるのでしょうか。この言葉が度外れており、とても現実的ではないと感じたとしても、そこでなお「イエス様が言われるのだから、やってみよう。この言葉に従って行こう。」そう、一歩を踏み出し続けてきた。それがキリストの教会です。
 聖書が告げていることは自然なことではありません。自然な心の動きに従って行けば、神様から離れ、自分の罪に引きずられていってしまうのが私共です。聖書が私共に勧めているのは、その自然な心の動きに反して、神様に向かっていくということです。その方向転換は簡単に出来るものではありません。とてつもないエネルギーが必要です。放っておけば自らの罪の重みで落ち行く。それを受け止めて、逆に天に向かって高く高く投げ上げる。それには大きな力が必要です。そのとてつもないエネルギーを与えて、私共を方向転換させて、天に向かわせるために、イエス様は天から降り、十字架に架けられました。私共が自然な心の動きに従って生きるのでいいならば、イエス様は天から降ってくる必要はありませんでしたし、十字架に架けられる必要はありませんでした。

7.祝福する理由
 では、私共が悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いない、その理由は何か。イエス様が「そうしなさい」と命じられたから。その通りなのですが、ここにはもう一つ、私共が「祝福する」理由が記されています。それは私共が救われた理由でもあります。「かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」と聖書は告げます。私共が自分に嫌なこと、悪いことをする者、侮辱する者さえも祝福する。それは、私共が祝福を受け継ぐ者として召されたからだと言うのです。「祝福を受け継ぐ者」とは、あのアブラハムの祝福を受け継ぐ者ということです。アブラハムは神様に召し出された時、「祝福の源となるように。… 地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」と告げられました(創世記12章2~3節)。このアブラハムの祝福はイエス様によって成就され、キリスト者はすべてアブハムの祝福を受け継ぐ者とされました。つまり、キリスト者は、自分自身が救われ、祝福に与ったという所に留まらない。キリスト者は、自分が出会う人々へと神様の祝福が注がれていくために選ばれ、召され、立てられました。キリスト者とは、キリストの祝福を伝え、広め、その祝福で世界を満たしていく者とされているということです。
 世界には戦い、争い、嘆き、苦しみ、怒り、憎しみが満ちています。その世界のただ中にあって、キリストの祝福を祈り、伝えていく者として、私共は召された。だから、祝福していかなければならないのです。祝福することが、神様が私共を救ってくださった理由だからです。私共はそのような神様の大いなる救いの御計画、救いの目的の中で救われました。ですから、もし私共が祝福しなのであれば、どうして救われたのか分からなくなってしまいます。キリスト者とはそういうものです。

8.舌を制する
 聖書はここで旧約の言葉を引用し、「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」と告げます。ここで引用されているのは、先ほどお読みしました詩編34編の中の13~17節です。ここでも語らなければならないことは色々ありますけれど、まず注目したいのは「舌を制し」ということです。「舌」というのは口の舌、ベロですね。これを制する、制御するということです。この「舌を制する」ということで有名な聖書の箇所は、ヤコブの手紙3章です。こうあります。「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。… 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。… しかし、舌を制御できる人は一人もいません。」とあります。それほどまでに、舌を制御するというのは難しい。私共が罪を犯すのは、愛による一致を壊すのは、舌です。つまり言葉です。この舌を制するのは本当に難しい。私自身、腕力で人を傷つけた覚えはありませんが、この言葉によって人を傷つけてしまったことは何度もあります。本当に申し訳ないと思います。言う前に気が付けば良いのですが、大抵は言ってしまってから気付きます。しかし、一度口から出た言葉は、消しゴムで消すことは出来ません。そして、相手の心に深い傷を残します。恐ろしいことです。確かに、舌を制することは難しい。しかし、ここでも私共は「無理だ」と言って諦めてはなりません。これもまた聖霊なる神様の導きの中で、制することが出来るように導かれていく。このことを私共は信じて良いのです。何故なら、この舌を制するのも、やはり神様からいただいた愛だからです。

9.主の目が注がれている
最後にもう一つ。私共が、言い返したり、やり返したりしないのは、それは神様がなさることだからです。12節「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」とあるように、私共は神様の眼差しの中におります。そして、神様は私共の祈りに耳を傾けてくださっています。ですから、神様はすべて御存知です。とすれば、神様はすべてを御存知の上で、必要であると判断されれば、その人を裁き、懲らしめられるでしょう。それは神様がなされることです。そのことを信じて、私共は言い返さず、やり返さず、祝福を祈っていく。そこに、度外れた、驚くべき愛の交わりが形作られていきます。その交わりは、この世界の普通の交わりではありません。神様を中心として、神様によって建てられ、神様の御言葉によって導かれ、形作られていく交わりです。このキリストの体である教会という交わりが、神様の愛と恵みと真実を証ししていくことになります。そして、このことが証しされるために、私共は選ばれ、召され、立てられているということです。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
2024年最初の主の日にあなた様の御言葉を与えられ、感謝いたします。私共は、やられたらやり返すのが当たり前の世界に生きています。しかし、あなた様はそのような中に生きる私共に向かって、愛し合い、心を一つにして、言い返さず、やり返さず、祝福を告げて歩むようにと勧めてくださいます。イエス様がそのように歩まれたからです。どうか、私共がイエス様と一つに結ばれた者として、イエス様を宿す者として、あなた様の愛を証ししていくことが出来ますように。聖霊なる神様の導きを心から祈り願います。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2024年1月7日]