日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「義のための苦しみ」
箴言 25章21~22節
ペトロの手紙一 3章13~18節 詩編 34編9~17節
ペトロの手紙一 3章8~12節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
能登半島地震から2週間になります。まだ余震があります。避難所におられる方々は、その度にドキッとして、心の安まらない辛い日々を送っておられることと思います。輪島教会では会堂が倒壊し、牧師館は建ってはいますが隣の家が倒壊してきて、その屋根が牧師館の壁を突き破っており、中に入れない危険家屋に指定されました。牧師も信徒も避難所での生活が続いてます。今日も避難所で、先週と同じように教会員と共に聖書を読み、祈りを捧げていることでしょう。共に祈りを合わせていきたいと思います。私共の教会も救援募金を始めました。この募金は被災した教会や関連施設の再建・復興のために用いられます。ご協力ください。
 さて、今朝与えられております御言葉は、ペトロの手紙一の3章13節以下ですが、先週もお話ししましたように、ここは8節の「終わりに」から始まる部分の続きです。この「終わりに」というのは2章の11節から続いてきた「勧め」の部分の「終わりに」ということです。前回は、「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」と勧められ、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。」と勧められました。「そう言われても…。」と言いたくなるところがあるかもしれませんけれど、聖書がそのように勧めるのは、イエス様がそのように歩まれたから、イエス様がそのようにお命じになったからです。そして私共は、そのイエス様と一つに結ばれた者だからです。

2.キリストを主とあがめる者
私共はイエス様によって救われました。神の子としていただき、永遠の命に与る者としていただきました。ですから、私共はそのイエス様を「我が主・我が神」としてあがめる者となりました。「イエス様を主とあがめる」、これが私共キリスト者の一番大切なところであり、生活の基本姿勢です。私共が心の一番深い所、存在の根本において、信仰によって決定的に変えられたことです。「キリストを主とあがめる」(15節)ということは、自分が人生の主人ではなく、イエス様・神様が私共の人生の主人となったということです。私共の人生の主人が自分自身であった時、私共は自分が求める物を手に入れる、自分がみんなに重んじられる、そのようなことが一番大事なことでした。ですから、自分が求めるものを手に入れることが出来ないとか、人から重んじられないということは、本当に辛いことであり、腹立たしいことでさえあったわけです。勿論、「今はもう、人に何を言われても腹が立たなくなりました。」というわけではありません。でも、一番大切なのが「私」ではなく、「イエス様・神様」になりました。それは、神様・イエス様の御心が現れていくこと、神様・イエス様の御名があがめられること、それが一番だ、それが何より嬉しいことだと思うようになったということです。
 これは、私共一人一人の心の中の問題であるばかりでなく、教会という交わりにおいてもそうです。私共は、自分の教会だけのことだけではなくて、諸教会との交わりの中で、それぞれの教会が恵まれ、祝福されていくことを願い求める者とされています。神様の御心は、私共の教会だけに恵みと祝福を与えるというものではないことは明らかだからです。今回の能登半島地震においても、私共は、輪島教会、七尾教会、羽咋教会、富来伝道所はどうなっただろうか、牧師や信徒たちは無事だろうかとそれぞれ思いを馳せたことでしょう。私のパソコンにも連日、全国から安否を問うメールが届きました。ありがたいことです。私共はそのような交わりの中に身を置いています。それは本当に幸いなことです。

3.善いことに熱心な者
 では、そのようなイエス様を「我が主・我が神」とするようになった者はどうなるかと申しますと、今朝与えられている御言葉で言いますと、13節にありますように「善いことに熱心」な者となります。「善いことに熱心」という言い方は、ちょっと不思議な言い方です。確かに、私共は誰もが善いことをしたいと思っています。悪いことをしたいと思っている人など、そうそういるものではありません。しかし、善いことをするのに「熱心」ですかと問われれば、「それほどでもありません。」と答えるのではないでしょうか。しかし、善いことをする上で、熱心であることはとても大切です。それは、この「善いこと」というのは、「十戒」に代表されるような、神様の御心に従うこと、神様の愛に生きることだからです。「何となく、出来れば良いかな。」というぐらいの思いで、本当に「善いこと」を為していけるかと言いますと、ちょっと無理ではないかと思います。神様に愛され、神様を愛し、隣人に愛され、隣人を愛する。それがイエス様の救いに与り、新しくされた者のありようです。この愛の交わりを形作り、その愛に生きることを喜びとする者。それがキリスト者です。その愛の交わりは、適当にやっていて出来てくるものではありません。心を込めて、それこそ熱心に形作っていかなければなりません。そして、その愛の交わりにおいてこそ、神様の栄光が現れ、神様の御名が誉め讃えられていくことになります。
 私共は、この「神様の愛に生きる」ということをきちんと自覚しておりませんと、いつの間にか、神様の御心に従うことよりも自分の損得、自分の都合、自分の立場などを優先してしまうことになってしまうからです。かといって、この「熱心」ということを、本当はやりたくもないことを、歯を食いしばって必死になってやっていくというイメージで受け止めますと、聖書が告げていることとは違ってしまいます。この「善いことに熱心である」ということは、イエス様に救われ、イエス様に愛され、イエス様に生かされている者にとって、まことに自然な心の動きだからです。丁度、母が我が子のために労苦することを、自分ではそれほど頑張っていると意識することがなくても、それを自分の生活の第一にして、まさに熱心にやっているのに似ています。愛というものは、そういうものだからです。愛は、喜んで労苦を担うことだからです。今、親子の関係で申し上げましたけれど、それに限らず、夫婦も家族もそして教会の交わりも、そういうものなのではないでしょうか。

4.義のために苦しみを受ける者
善いことに熱心であるならば、周りの者たちから害を加えられることはない。善いことをしているのですから、それは当然のことです。しかし、この当然のことがしばしば破られることになります。それが、偏見や差別、迫害や弾圧といったものとして、歴史の場面に顔を出します。ここには、人間の罪が最もストレートに現れます。
 私共はここでイエス様の十字架を思い起こします。イエス様は何も悪いことをしていなかったのに、十字架に架けられてしまいました。善いことに熱心だったのに、ひどい目に遭いました。勿論、イエス様はそうなることを御存知でしたし、それが神様の御心であることも分かっていました。御自身の十字架の死によって、すべての罪人の裁きを我が身に引き受けられたイエス様でした。イエス様は、善いことに熱心であっても苦しめられることがあるということをはっきり知っておられました。ですから、山上の説教において「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5章10節)と告げられました。「義のために迫害される」とは、自分も自分の弟子たちも、義のために、つまり神様への真実、信仰を理由に迫害されることがあるということです。そのことをイエス様ははっきり告げられました。旧約の歴史においても、神様の言葉を告げたが故に、神の民であるユダの人々に疎んじられ、迫害された人がいました。その代表的な人が、預言者ではエレミヤです。彼は、このように告げよと神様の御言葉を与えられ、そのとおりに語りました。しかし、語れば語るほど、人々から疎んじられ、牢に入れられたほどでした。
 そして多分、この手紙を受け取った人たちは、迫害の足音が自分たちにヒタヒタと近づいて来ていることを知っていたのだろうと思います。部分的にはもう始まっていたのかもしれません。そのような人々を慰め、励ますためにこの手紙は書かれました。

5.恐るべきは、ただ神様のみ
 ペトロはここで「義のために苦しみを受ける」ようなことがたとえあったとしても、「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」(14節)と告げます。それは、イエス様によってこう告げられていたからです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイによる福音書10章28節)迫害などでキリスト者の命を取ることが出来たとしても、キリスト者の魂を葬ることは出来ません。それは神様のものだからです。本当に恐るべきお方は、肉体も魂も滅ぼすことが出来るお方、ただ独りの神様だけです。
 しかし普通は、「この神様を信じたら、こんな良いことがあります。」そのように教えるものです。この神様を信じても、大変な目に遭うかもしれません。そんなことはあまり言うもんじゃない。しかし、イエス様も弟子たちも正直に言いました。勿論、イエス様を信じたならば、神様の救いに与りますし、永遠の命を与えられますし、神様との親しい交わりの中に生きる者とされます。しかし、「イエス様を信じたら、この世で大変な目には遭いません。辛いことは起きません。」とはイエス様は言われませんでした。信仰の故に辛い目に遭う時だってあります。この手紙が記された時、キリスト者は圧倒的な少数者でした。日本におけるキリスト者の立場と同じです。それ故に様々な偏見の目で見られたり、差別を受けることがありました。しかし、そのような時が来ても、なお「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」と聖書は告げます。更に17節では「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」と言います。勿論、私共は苦しみたくなんてありません。しかし、たとえそういうことになっても、私共は、神様の御心に敵対するように、神様の愛を裏切るように生きることは出来ませんし、しません。何故なら、苦しむことは嫌ですけれど、私共に与えられている救いは、この地上においてどうなるかということをはるかに超えているからです。それは、こう言っても良いでしょう。私共に与えられている希望、イエス様によって与えられた希望は、この地上の命を超えたところにあるのです。

6.希望に生きる者
キリスト者は、この希望と共に、この希望によって生きます。この希望は、この地上において何かを得るというようなものではありません。勿論、神様は生きて働いておられ、全能のお方ですから、目に見える幸いをも与えてくださいますし、困難から救い出してもくださいます。しかし、それがイエス様によって私共に与えられた究極の希望かと言えば、そうではありません。私共に与えられた希望は、この地上の命の終わり、つまり死によっても奪われることのないものです。私共の神様・イエス様と共なる命は、肉体の死によっても損なわれることはないし、イエス様が再び来られる時には共々に復活の体をいただいて、永遠の命に生きる者となるという希望です。キリストを主と崇める者は、この希望に生きます。この希望こそ、私がいつも言っている、この世界にあるいかなるものによっても砕かれることのない「強靱な希望」です。「最強の希望」と言っても良いでしょう。この希望と共に生きる者は、肉体の死が持つ絶対的な闇にさえも飲み込まれることはありません。希望の光を失うことはありません。この希望に生きる者は、この希望を知らない人から見れば「不思議」で仕方ありません。ですから、こんな状況の中でどうして希望を失わないのか、こんな目に遭ってどうしてそれでも神様を信じるのか、どうして信仰を捨てないのか、その不思議さに、「どうしてそんな風でいられるのか。」と問わざるを得ない。ここで聖書は、「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」と告げます。
 ここで私は、北陸最初のキリスト者、元加賀藩の上級武士であった長尾八之門のことを思い起こします。明治2年(1869年)に金沢藩にお預けとなった約五百名の浦上のキリシタンは、明治6年(1873年)に送還されるまで、金沢の卯辰山の牢舎に幽閉されました。その間、百余人が折檻や飢餓・病気で命を落としたと言われています。その彼らを加賀藩の役人として監督していたのが長尾八之門でした。彼は、キリシタンたちが困窮のただ中にあっても、それでも助け合い、信仰に生き続ける姿に驚きました。彼は役人として、彼らに訊問もしたでしょう。何をどのように信じているのか尋ねたでしょう。信仰を捨てるように説得もしたでしょう。しかし、彼らは信仰を捨てませんでした。廃藩置県で加賀藩がなくなった後、彼は色々事業を始めたようですが、まさに殿様商法ですべて失敗します。これからどう生きていけば良いのか、困り果てたに違いありません。その時、金沢にやって来た米国長老教会の宣教師トマス・ウィンと出会います。そして、イエス様によって与えられた強靱な希望を知ります。彼は、北陸において最初に洗礼を受けた人物、最初の日本人キリスト者になりました。その彼の息子が長尾巻です。長尾巻も父の後を追って洗礼を受け、キリスト者となりました。そして、トマス・ウィンの指導の下、北陸における最初の日本人伝道者となりました。長尾巻は私共の教会の最初の定住伝道者です。実に、この聖書に語られていることが、この北陸の地において起きたのです。

7.穏やかに、敬意をもって、正しい良心で
 この強靱な希望について、きちんと説明出来るようにしておきなさい、そうペトロはここで告げます。しかも、その時の説明は「穏やかに、敬意をもって、正しい良心」をもって行うようにと告げています。ただ説明すれば良いというのではありません。「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」です。これは色々な言葉に翻訳することが出来ますけれど、詰まるところ「愛をもって」「正直に」ということでしょう。相手のご機嫌を取ったり、忖度することはありません。しかし、偉そうにしてはなりません。それは、愛というものは「仕える」というあり方において現れるものだからです。イエス様は弟子たちにこう教えられました。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(ルカによる福音書22章26節)「愛をもって」ということは、「仕える者のように」ということです。その根本にあるのはイエス様です。イエス様がそのように歩まれたから、私共もそのように歩む。とても単純なことです。それは、私共はイエス様を愛し、イエス様に憧れているからです。愛していない人や心から尊敬していない人、心から慕っていない人に、一体誰がその人に倣おうとするでしょうか。誰もしないでしょう。しかし、心から愛し、慕い、敬っている人に対しては、私共は一生懸命に倣おうとすいるでしょう。後に付いて行きたいと思うでしょう。ペトロたちもそうでした。そして、代々のキリスト者たちもそのように歩んで行こうと願いました。そして、私共もそのように歩んで行きたいと願っています。

8.霊において生きる者
最後に18節を見て終わります。18節「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」イエス様の十字架の苦しみは、正しくない者、罪人のためでした。つまり、私共のためでした。私共を神様の御許へ導くためでした。聖なる神様は罪人を放っておかれることはありません。必ず裁かれます。その神様の御許に私共が導かれるということは、何もなければ一瞬にして滅ぼされてしまうだけです。しかし、イエス様の十字架によって、私共は一切の罪を赦していただきました。神様は私共の一切の罪を赦してくださり、私共を「我が子よ」と呼んでくださり、親しい交わりの中に招いてくださいました。イエス様は十字架に架かって肉体の死を味わわれましたけれども、父なる神様によって復活させられ、そして天に昇られ父なる神様の御許に行かれました。ですから、私共が神様の御許に招かれたということは、父なる神様と子なる神様であるイエス様との永遠の交わりの中に、私共が招かれたということです。実に驚くべきことです。私共は例外なく、この地上における命を閉じられなければならない時が来ます。けれども、それで終わることはありません。私共は、イエス様と同じように「霊では生きる者とされ」ます。これがイエス様によって私共に与えられた、希望です。ですから、どのようなことがあっても神様を離れることなく、善いことに熱心で、愛と正直さをもって隣人との交わりを形作っていきます。私共は神様に愛され、神様の子としていただいているのですから、何も恐れることはありません。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
今朝あなた様は、私共がイエス様を主とあがめ、強靱な希望と共に生き、イエス様に倣って愛と正直さをもって歩むようにと勧めてくださいました。どうか、この勧めに従って、喜びと感謝の中で、あなた様の御許に召されるまで健やかに歩んで行くことが出来ますよう、心から祈り願います。私共の希望について問われるならば、いつでも、誰に対しても、愛をもって正直に語っていくことが出来ますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2024年1月14日]