日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「主イエスの陰府降り」
創世記 8章15~22節
ペトロの手紙一 3章18~22節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 能登半島地震から3週間になります。道路は少しずつ繋がってきまして、孤立集落はなくなったとの報道がありました。被災者の方々はなお厳しい状況が続いています。まだ多くの方が避難所での生活を強いられています。輪島教会・七尾教会の状況については、中部教区のホームページに報告が載っています。新しい報告が加えられていますので、是非そちらもご覧ください。輪島教会は、牧師も信徒も避難所での生活が続いています。礼拝する場所がありません。今日も避難所で牧師と教会員が聖書を読んで祈りを捧げていると思います。七尾教会は、まだ断水が続いています。ただ、幼稚園には井戸があり、必要なものは自衛隊の方々が配ってくれて、通常の保育をされているとのことです。礼拝は通常通り為されています。本当に大変な日々を送られていることを思い、主の支えと慰めを共に祈ってまいりたいと思います。

2.キリストの勝利に与るために
 さて、今朝与えられている御言葉は、キリストの勝利を告げています。キリストの勝利は勿論、私共の勝利となります。
 ペトロは2章の11節から「肉の欲を避けなさい。」「皇帝であろうと、総督であろうと、服従しなさい。」と勧め、次に具体的な立場を挙げて「召し使いたち、主人に従いなさい。」「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」「夫たちよ、妻を尊敬しなさい。」と勧めました。更に「皆心を一つにし、兄弟を愛し、謙虚になりなさい。」「悪をもって、悪に報いてはなりません。」「善いことに熱心であるように」と勧めてきました。ペトロがそのように私共に勧める根拠は、イエス様がそのように歩まれたから。そして、イエス様がそのように歩むようお命じになられたからでした。では、そのように歩まれたイエス様は、どうなったのでしょうか。イエス様はすべてに勝利されました。悪霊にも、それにそそのかされた人間の悪意や侮辱にも、この世の権威・権力にも、そして死に対してさえも勝利されました。そのイエス様の勝利に与る者とされているのが私共です。イエス様に倣い、イエス様に従っていくのは、このイエス様の勝利に共に与る者としていただいているからです。仕えること、従うこと、悪に報いないこと、善に熱心であること、それはキリストの勝利の道に倣っていくためです。
 このキリストの勝利は、22節で「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」と告げられている通りです。ここで、私共になじみ深い使徒信条の「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」とほとんど同じ言葉が使われていることに気付きます。この「キリストは、天に上って神の右におられます」とはイエス様の勝利を告げている言葉です。イエス様は、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇られました。イエス様は今も、天におられます。そして、そこから聖霊なる神様を送り、私共に必要なすべてを与え、導いてくださっています。イエス様は、父なる神様と共に天におられ、全能の父なる神様と同じ力、同じ権威をもって世界を御支配しておられます。それが「神の右におられる」ということの意味です。
 ここで「天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」と告げられている「天使、権威、勢力」ですが、これは霊的存在の名前と考えられます。天使は分かりますが、権威・勢力というのも、この世の権威・勢力を支配するような霊的存在です。イエス様は、これらすべてを支配しておられる。そして、イエス様に従う私共は、このイエス様の勝利に与ることになります。仕えるとか、従うとか言いますと、何か大きな力に負けて、それに迎合し、支配されているように思えるかもしれません。しかし、そうではありません。仕え、従い、愛することによって、私共はイエス様の御足の跡に従い、やがてはこのイエス様の勝利に与ることになる。そのことを信じて、そこを目指して、私共はこの地上での歩みを為しているわけです。

3.十字架から復活へ
このイエス様の勝利の道が、十字架へ、そして十字架から復活へという道でした。それが18節で告げられていることです。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」この「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。」とは、イエス様の十字架の苦しみを指しています。イエス様の十字架は「ただ一度」だけでした。それは、イエス様の十字架による私共の罪の贖いは、完全なものだったからです。イエス様が私共の身代わりとなってくださったということが、不十分な、限界のある、一時的な罪の赦ししか与えることが出来ないものであったならば、何度も何度も繰り返しイエス様は十字架にお架かりにならなければならなかったはずです。そうでなければ、私共が救われることはありませんでした。しかし、そんなことは必要ありませんでした。イエス様の十字架はただ一度でした。それは、イエス様の十字架による罪の赦しは完全であり、永遠に効力があり、その効力は無限であり、すべての人の罪を赦すことが出来たからです。それはイエス様がまことの神の独り子だったからです。十字架が罪なき神の御子の犠牲だったからです。イエス様がただの人間であったのならば、決して完全な救いにはなり得ません。私共が救われたのは、イエス様が神の独り子であられたからこそです。
 このイエス様の十字架は「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれた」という出来事でした。神の御子である、全く罪のない、聖なる、完全に正しいお方が、私共罪人のために苦しみを受けられた。それは「あなたがたを神のもとへ導くため」、つまり私共を神様の御許に導くためでした。「神の御許に導く」とは、私共を神の子とし、神様との親しい交わりに生きる者とするということです。神様に造っていただきながら、神様に感謝することもなく、神様が与えてくださるすべてのものを当たり前のこととして受け取り、自分の力だけで手に入れたかのように思い違いしていた私共でした。それは、神様に逆らい、敵対し、更には神様を無視していたということです。私共と神様との関係は破綻していました。そのままでは、私共は救われません。ただ神様に裁かれ、滅びるしかありませんでした。しかし、神様は私共を滅ぼすのではなく、救うために、御自身の独り子イエス様を与えてくださいました。ここに神様の愛があります。
 そして、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」と告げられています。この「肉では死に渡されました」とは、十字架の上での死を指しています。そして、「霊では生きる者とされた」とは、復活を指しています。この十字架から復活への道がイエス様の勝利の道であり、私共もこの道を歩んで行きます。そして、その先にあるのが、イエス様の勝利に与るという、救いの完成です。さて、ここまでは私共が何度も聞いてきた話です。

4.陰府に降り
今朝の御言葉は、その先の19、20節が非常に特徴的であり、またとても難解なところです。この御言葉をどのように理解するのかということで、大きな対立が起きてしまうようなところでもあります。19節「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」とあります。「捕らわれていた霊たちのところ」というのは、陰府と理解して良いでしょう。ですから、これは使徒信条の中に「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」とありますところの「イエス様の陰府降り」と言われる出来事を告げています。イエス様は金曜日の午後3時に十字架にお架かりになって死なれました。そして、日曜日の朝には復活しておられました。では、土曜日はどうされていたのか。死んだままで、墓の中で横たわっておられたのでしょう。これを使徒信条では「陰府にくだり」と言っているわけです。この「陰府」というのは、死んだ者が行くところです。イエス様は本当に死んで、陰府にまで降られた。これは、イエス様が本当に死なれたということを意味しています。問題は、そこにおいてイエス様が「宣教された」と告げられていることです。これが何を意味するのか。このことについては、後ほどお話しします。
 そして、この陰府においてイエス様の宣教を聞いた霊について、20節で「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」と告げています。これは、創世記の6~9章に記されています、ノアの箱舟の話を前提としてます。ノアは神様に大きな箱舟を造るよう命じられ、その御言葉に従いました。そして、動物が一つがいずつ箱舟に入ると、大雨が降ってきて、洪水が起こり、全地が水で覆われました。そして、ノアの家族8人だけが助かり、他のすべての者は溺れ、滅ぼされてしまいました。彼らは、神様を信じることなく、神様に裁かれて滅んだ者たちでした。その彼らの所にイエス様は行かれて、宣教されたというのです。
 ここではっきり言えますことは、イエス様の御支配は、天と地のすべての所に及ぶと共に、陰府にまでも及んでいるということです。イエス様の御支配の御手が届かない所は存在しないということです。私共は必ず肉体の死を迎えることになりますが、イエス様の御支配はその肉体の死を超えてあり続けるということです。イエス様は陰府から復活され、死の支配を打ち破られました。そのイエス様の御力の中に生きる。イエス様の御支配の中に生きる。しかもそのイエス様と親しい交わりをもって生きる。それがイエス様によって救われた私共です。何と幸いなことでしょう。

5.セカンド・チャンスはあるのか?
先ほど、ここの理解については、鋭い対立が起きるほどの解釈の違いがあると申し上げました。それは、「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」という言葉を、どう理解するかということです。一方は、イエス様が陰府に降られて宣教された以上、神様・イエス様を知らず、信じることなくこの地上の生涯を閉じた者に対しても、陰府においてイエス様の福音は伝えられたのだから、そこで悔い改め、救いに与ることが出来ると理解する。他方は、そんなことはないと理解する。ここが大きく分かれる所です。死んだ後、陰府においても悔い改めて、救いに至ることが出来るという理解を、セカンドチャンスと言います。この地上の生涯において、イエス様を信じ、洗礼を受けた者は救われる。これがファーストチャンスです。これに反対するキリスト教会、キリスト者はいません。しかし、地上の生涯において、イエス様の福音に出会うことなく、礼拝堂に入ったことさえなく、洗礼に与ることもなかった人はどうなのか。みんな滅びるのか。
 この問題は、フランシスコ・ザビエルが日本に最初にキリスト教を伝えた時からの大問題です。ザビエルは日本伝道を報告する手紙の中で、こう記しています。「彼ら(日本人)は亡くなった子どもや、両親や、親類の悲しい運命を涙ながらに顧みて、永遠に不幸な死者たちを祈りによって救う道、あるいはその希望があるかどうかを問います。それに対して私は、その道も希望も全くないと、やむなく答えるのですが、これを聞いたときの彼らの悲しみは、信じられないほど大きいものです。そのために彼らはやつれ果ててしまいます。… 神は祖先たちを地獄から救い出すことはできないのか、また、なぜ彼らの罰は決して終わることがないのかと、彼らはたびたび尋ねます。」この問題は、ザビエルの日本伝道における、最大の課題でした。このザビエルが報告した日本人の心の動きは、500年経った今の日本人も変わらないのではないでしょうか。
 当時のローマ・カトリック教会の答えは、「洗礼を受けない者に救いはない」というものでした。ですから、ザビエルもそう答えるしかなかったわけです。しかし、最近は少し違っているようです。正教会には、亡くなったキリスト者にならなかった者のための祈りというものがあります。一方、福音主義教会の主要な教派の伝統的な教理は、セカンドチャンスはないというものです。しかし、初期のキリスト教には、未信者の死後の救いのために祈ったという多くのキリスト者たちの記録があります。私は、これは当たり前のことだと思います。初代教会においては、キリスト者は圧倒的な少数者でした。家族の中で自分だけがキリスト者だということだって少なくなかった。この手紙が書かれたのもそういう時代です。ですから、「妻たちよ」という勧めの所で、未信者の夫に従いなさいと勧めているわけです。そもそも、キリスト教に出会ったことがない人が大勢いました。その状況は現代の日本と変わりません。中世以降、キリスト教世界となったヨーロッパにおいては、異教徒の救いということは全く問題になりませんでした。何故なら、そんな人は中世ヨーロッパにはいなかったからです。生まれたら幼児洗礼を授ける。これが当たり前のことでした。キリスト者以外の人はいなかったのが中世のヨーロッパです。キリスト者以外の者がいるとすれば、ユダヤ教徒、あるいはヨーロッパに攻めこんできたイスラム教徒たちくらいのものです。ですから、「彼らは滅びる」と平気で言えたわけです。しかし、この伝道地である日本で、キリスト者以外はみんな滅びる、洗礼を受けなかった者はすべて滅びる、そんなことが単純に言えるのでしょうか。私共の神様は、本当にそのようなお方なのでしょうか。
 私は、セカンドチャンスが「ない」と言うのも言い過ぎだし、「ある」と断言するのも言いすぎではないかと考えています。聖書には明確にセカンドチャンスがあることを示しているところは、あまりありません。そもそも、死後のことについて、私共は絵を描くようにその世界を示すことは出来ないし、許されていないのではないかと思います。誰が救われ、誰が救われないのか。それは神様の御手の中にあることです。これは神の領域です。しかし、福音に出会うことなく、洗礼に与ることもなく、この地上での生涯を終えた愛する者の救いを祈ることは禁じられているはずがありません。私共は神様の憐れみを信頼し、祈って、神様にお委ねする。それが救われた私共が出来ることなのではないかと思います。勿論、愛する者が生きている間に、福音を伝え、キリスト者になって欲しいし、そのために私共は心を熱くしていかなければなりません。しかし、すべてがキリスト者になるわけではありません。私共はその人のために祈るしかありません。私共がキリスト者ではない人の葬式をするのは、この祈りによってです。キリスト者になることなく地上での生涯を閉じた人の救いを遺族と共に祈る。それがなければ、キリスト者以外の人の葬式を行うことは出来ないでしょう。

6.洗礼による救い
セカンドチャンスついては以上のようなことになりますけれど、ファーストチャンスについて、この地上の生涯において救いに与ることについて、聖書は続けてこう告げます。21節「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」ノアの家族8人、これはノアと3人の息子とそれぞれの妻を合わせての8人ですが、この8人は箱舟に乗っていて、洪水によっても滅ぼされることはありませんでした。そして、この8人から新しい人類は全地に広がっていきました。ここで、この8人が大水によっても滅ぼされずに救われたということが、洗礼による救いを指し示していると言うのです。そのままでは自らの罪によって滅びるしかない私共、つまり大水に飲み込まれてしまうしかない私共が、洗礼を受けることによって、イエス様の復活の出来事と一つにされて、救われた。それは、箱舟に乗っていたノアの8人の家族が救われたようなものだ。キリストの教会のシンボルとして船が用いられるようになったのは、こういう理由からです。肉体の死と共に滅びるしかなかった私共が、死んでも死なない命、イエス様の復活の命に与って、永遠に生きる者とされた。まことにありがたいことです。
 しかし、「洗礼は、肉の汚れを取り除くことでは」ありません。肉体を持っている限り、私共は完全に罪を犯すことのない者になることは出来ません。しかし、たとえそうであっても、その罪はキリストの十字架によって、完全に、一点の曇りなく赦されます。そして、神の子としていただいた神様との関係が揺らぐようなことは、決してありません。
 更に、洗礼は「神に正しい良心を願い求めることです。」と続きます。洗礼が「神に正しい良心を願い求めること」だということは、少し分かりづらいのですが、新改訳では「正しい良心の神への誓い」とあり、聖書協会共同訳では「正しい良心が神に対して行う誓約です。」とあります。確かに、洗礼においては、神と会衆の前で誓約をします。この誓約は父・子・聖霊の神様を信じますと誓約するわけですが、これは神様の御前における聖なる誓約です。正しい良心によってなされなければなりません。そして、その誓約した信仰の道を真実に歩むことが出来るように、正しい良心が与えられるよう願い求める者になるでしょう。洗礼は信仰生活の出発点ですけれど、私共の救いが確定される決定的な神様の御業です。聖霊なる神様がそこに臨んでくださって、私共を神の子としてくださり、信仰を与え、希望を与え、愛を与え、正しい良心を与え、御国に向かって歩んで行く力と勇気を与えてくださる。その御業の中に生きる歩みが、洗礼と共に始まります。
 イエス様の御支配は天も地も陰府も含んで、すべてのものに及んでいます。その慈愛に満ちた御支配の御手の中に、私共は洗礼によって生きる者としていただいています。その恵みを隣人や愛する者に伝え、すべての人を救おうとされている神様の御心にお仕えしてまいりたいと願います。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、私共に御言葉を与え、イエス様の御支配が、天と地と陰府とを貫いて確立していることを教えてくださいました。私共はなお罪を犯してしまいますけれど、その御支配は、私共の罪によって揺らぐことはありません。あなた様は私共の父となられ、私共が愛し、信頼し、祈り、賛美することを喜んで受け入れてくださいます。洗礼によってイエス様と一つにしていただいたからです。この恵みの中に私共が生ききることが出来ますように、聖霊なる神様の導きを心から祈り、願います。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2024年1月21日]