1.はじめに
週報にありますように、先週の月・火と、敬愛するH・M兄弟の前夜式・葬式がここで執り行われました。皆さんもここに集い、御遺族の方々の上に主の慰めを祈りました。このように主の日を迎えますと、H御夫妻が並んで主の日の礼拝に集われていた姿を思い起こします。改めて、私共のこの地上の命には限りがあることを思いますと共に、私共の命はこの地上の命、肉の命と共に終わるのではないということも思わされます。聖書は、このことを繰り返し約束しています。この約束を信じ、地上の生涯と共に終わらない命の希望をもって一日一日を歩む。それが私共の歩みです。そして、この限りある地上の生涯をどのように生きるのか、それが私共に与えられている課題です。そのことについて、今朝与えられている御言葉ははっきりとこのように告げています。それは2節に記されているように、「もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って生きる」ということです。
2.キリストに救われる前と現在
私共は、イエス様に救われる前、つまり天地を造られた神様を「我が主、我が神」として拝む者となる前と、イエス様の救いに与り、神様を「父よ」と呼ぶ者とされてからとでは、大きく変わりました。それは、目に見えない心の問題として、善悪の基準や、何が大切なのかということであったり、何を誇りとするのか、或いは自分の好みや、自分は何をしたいのかといったことから、見える決断や行動といったところにおいても変わりました。心も行動も、あっという間に劇的に変わった人もいるでしょうし、少しずつ変わってきたという人もいるでしょう。この点では大きく変わったけれども、この面ではあまり変わっていないということもありましょう。いずれにせよ、この変わっていくということは、とても大切なことです。信仰が与えられて神様の子とされながら、何も変わらないとすれば、信仰はどれほどの意味があるかということにもなりましょう。
そうは言っても、この変化というものは自分自身ではよく分からないところがあります。理由は二つあります。一つは、その変化が少しずつなので気が付かないということです。髪の毛や爪は毎日伸びていますけれど、何日かしてからでないと気が付かないのに似ています。ですから、5年前、10年前、或いは洗礼を受ける前と比べると、「ああ、随分変わったな。」と思う。そんな感じでしょう。もう一つの理由は、変わってしまった自分が変わってしまった自分を見ているわけですから気が付かないということです。これは、自分で気が付かなくても、周りの人から見れば分かるということになります。特に、何年かぶりに会った友人なんかから見るとよく分かるということになるかもしれません。
もっとも、人というものはいつでも変わっていくものですから、変わっていくこと自体は当たり前のことです。大切なことは、その変わり方、変わっていく方向ということになりましょう。聖書はそれを「御心に従う」という方向において変わっていくのだと告げているわけです。
キリスト者とは、2節にあるように、「肉における残りの生涯を、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って生きる」者となりました。「肉における残りの生涯」とは、高齢になってもう残りの生涯が少なくなり、そのわずかな時間は人間の欲望に従うのではなくて神の御心に従って生きるという意味ではありません。「肉における残りの生涯」とは、キリスト者となり、神様と共に歩む者になった者の残りの生涯ということです。若い時にキリスト者になったならば、その時からこの地上の生涯が閉じられるまでの生涯ということです。若くして救いに与った者はその時から、高齢になって救いに与った者はその時からの残りの生涯ということです。自分の残りの生涯がどのくらいなのか、それは誰にも分かりません。分かりませんから、今日という一日一日を神様の御心に従って歩む。それがキリスト者に与えられている課題だということです。
3.神様を知らなかった時の私
では、イエス様の救いに与る前の自分とは、どのような者だったでしょうか。
自分自身のことを思い起こしてみますと、私が洗礼を受けたのは20歳の時でした。その洗礼と共に劇的な変化があっという間に起きたということではありませんでした。10代から20代にかけて、私が求めていたのは、実に単純でした。目に見える富、社会的な地位、恋人、それを手に入れたいと思っていました。それ以外の価値あることについて、私は全く知らないで育ってきていたからです。勿論、人に優しくとか、思いやりを持ってとか、そのような常識的なことは知っていました。しかし、求めていたものは、富と地位と恋人でした。分かりやす過ぎるくらいに単純でした。洗礼を受けて、その三つを手に入れるという欲から解放されたかというと、そう簡単にはいきませんでした。私が神学校に行ったのは27歳の時でしたけれど、この時になって、富と地位という二つの欲からは解かれました。もっとも、これは自分で何とか出来たというよりも、ずっと逃げていた牧師への道へと神様によって強制的に追い込まれて、観念したということでした。三つ目の恋人が欲しいなという思いは、神学校を卒業する時にお見合いをして結婚することによって、なくなりました。ですから私の場合は、自分の欲と戦ってこれを治めたというよりも、神様によってそのような状況に導かれたと言いますか、追い込まれたというようなものでした。
神様は一人一人、それぞれ違ったあり方で導かれますので、私の場合はこうだったということです。そして、伝道者として神様の御心に従うことを第一として歩んで来ました。不徹底なところはあったでしょうけれども、そのように歩む者とされたことを心から感謝し、嬉しく、ありがたいことだと思っています。
4.金の子牛に見る人間の欲
聖書はここで、神様の救いに与る前の姿をこのように告げています。3節を見ますと、「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。」とあります。ここで「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲」とありますけれど、ここに挙げられていることだけが私共がイエス様に救われる前に犯していた罪ではありませんし、誰もがこのすべてをしていたわけではありません。ここで挙げられているのは、分かりやすい、典型的なこととして挙げられているのです。要するに「酒と異性関係」です。しかし、もっと本質的なことは、その後の「律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていた」ということです。これはフィリピの信徒への手紙3章19節で、「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」と告げられていることと同じです。己の腹を神とし、自分の欲を満たすことしか考えず、この世のことしか考えない。これが偶像礼拝です。
このことについては、先ほど申命記9章をお読みしましたが、そこに偶像礼拝とはこういうものだということがはっきり示されています。それはモーセがホレブの山、シナイ山に登り、神様から十戒を記した二枚の石の板を受け取った時のことです。40日してもモーセは下りて来ない。それで、山の麓にいたイスラエルの民は各々自分が持っていた金を出し合って、金の子牛の像を造り上げ、これを神様としてこれからの荒野の旅をしていこうとしたという出来事です。モーセが神様からそのことを知らされて急いで山を下りますと、イスラエルの民は金の子牛を神様に祭り上げてお祭りをしている。モーセは神様に頂いた十戒を記した二枚の石の板を投げつけて砕いてしまいました。どうしてイスラエルはそんなことをしてしまったのでしょうか。一つには「心細かった」ということがあったでしょう。神様が立てたモーセに導かれて歩んで来たイスラエルです。そのモーセがいなくなったら、どのようにしてこれから荒野の旅を為していけば良いのか分からず、不安で仕方がなかったのでしょう。そして、もう一つ。こちらの方が本質的ですが、「十戒」なんていう面倒なものに縛られることなく、自分の思いのままに、やりたいように、好きなように生きたい。それが「己が腹を神とする」ということですが、そのためには、何も話さず、何もしない偶像の方が都合が良い。人間の存在の根っこにある罪、神様なんて要らない、それが偶像礼拝の本質なのでしょう。
聖書は「もうそれで十分です。」と告げますが、これは今まで好き勝手にやってきたのだから、もう十分でしょうというニュアンスではありません。人間の欲は「もう十分」とは中々ならないものです。ここで告げられているのはそうではなくて、イエス様に救われて、今までの歩みが間違っていたということが明らかになったのだから、もう十分でしょうということです。罪から解き放たれ、神様を我が主・我が神として拝み、父なる神様と呼んで祈って歩むように、新しくされた私共です。だから、古い生き方を捨てて、新しく神の子、神の僕として生きよう。それがキリスト者ではないか、と告げているわけです。
5.今の私の願い・喜び・希望:神様に従って生きる
そのような私共に与えられた願い、喜び、希望はどのようなものでしょうか。それが「神様の御心に従って生きる」ということです。何よりも「神様の御心に従って生きる」ことを願い、「神様の御心に従って生きる」ことを喜びとし、「神様の御心に従って生きる」ことによって与えられる永遠の命を希望として生きる者となった私共です。生きていく上で、何が御心なのか分からないという場合もあるかもしれません。しかし、多くの場合、私共は為すべきこと、為さなければならないことがあります。それを、神様に与えられたこととして誠実に行う。それがとても大切なことなのだと思います。それは神様からいただいている賜物を、自分の欲を満たすためではなくて、神様の御心に従うために用いていくという営みです。神様が招いてくださった道において、神様に置かれた場所で、精一杯、神様を愛し、神様を賛美し、神様の御業に仕える者として生きるということです。それは特別なことでも、難しいことをするわけでもありません。夫や妻や子どもが与えられたならば、精一杯これを慈しみ、愛し、共に祈り、健やかな家庭を築いていく。仕事においても、精一杯良い仕事が出来るように励み、責任を果たしていく。困った人がいれば、手助けする。そういうことです。
一つの具体的な例を挙げますと、先週行われた葬式においてもお話ししましたけれど、天に召されたH・M兄弟は、私がこの教会に赴任してすぐの時から15年間、毎週土曜日に教会にお花を届けてくださいました。私共の教会が、玄関や階段の所に主の日の度ごとに毎週お花を飾ることが出来たのは、H・Mさんが届けてくださったからです。H・Mさんが、「今度、教会にお花を持っていきます。」と言われ、私は次の主の日のために一度だけ持ってきてくださるのだろうと思って、「ありがとうございます。」と言いました。すると、その時からずっと、毎週お花を届けてくださるのです。バケツに一杯のお花です。それはお家の庭に咲いているもので、お花が好きな奥様が手入れをして育てられたものでしたが、それを毎週教会に届けてくださいました。それは、庭の花を神様に捧げるという営みでした。H・Mさんは、それを神様から与えられた務めとして受け止め、高齢になって御自分で車を運転することが出来なくなるまで、毎週続けられました。それは美しいことであり、素敵なことでしょう。これは神様に与えられた賜物を神様に捧げて歩むということの、具体的な一つの証しです。神様から与えられているものは、みんな違います。ですから、神様に捧げるあり方もみんな違います。そして、この神様から与えられているものを神様に捧げるという営みこそ、神様に従うという歩みなのです。
この神様に従い、神様に与えられた賜物を捧げて歩むということの根底にあるのは、不平・不満・不足というものに目を向けるのではなくて、神様が与えてくださった自分の置かれている状況を、感謝と喜びをもって受け取るということではないかと思います。勿論、そんな風に言っていられないような困った状況に陥ることもありましょう。しかし私共は、そのような時も、すべてを導いておられる神様がおられるのですから、この方に祈ればよい。そして、私共には兄弟姉妹がいるのですから、兄弟姉妹に助けを求めたらよいのです。神様は必ず、道を開いてくださいます。コリントの信徒への手紙一10章13節に、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」と記されています。これは本当のことです。皆さんも、長い信仰の歩みの中で、この御言葉は本当だと何度も経験して来られたでしょう。
私共は神様を愛し、神様を信頼し、神様に従い、神様が与えてくださった希望に生きる。神様が、御自身の御心を為すために私共を用いてくださるならば、それは何と光栄なことでしょうか。私共の為すことは小さなことでしかないでしょう。しかし、その小さな業をも、神様は決して見過ごされることはありません。そして、喜んでくださる。ここに私共の喜びと誇りがあります。私共の喜びは、誇りと共にある喜びです。母は子を産み、育てる中で、この誇りある喜びを味わうのではないでしょうか。神様によって命を宿し、その命を慈しむことは、喜びでありますけれど、それは誇らしい喜びでしょう。自分の腹を満たす喜び、自分の欲を満たす喜びとは全く違います。この誇らしい喜びに生きる者とされているのが、私共キリスト者です。
6.苦しみがあっても
さて、4節・5節は少し分かりにくいかもしれません。「あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」
これは、キリストに従うようになると、今までのように「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけ」ることを一緒にしなくなりますので、「付き合いが悪いな。」「なんだあいつらは。」といったそしりを受けることになるということです。必ずそうなるとは限りませんけれど、そうなることもある。これは個人的なレベルでもあるでしょうし、社会的なレベルで起きることもあるでしょう。個人的なレベルの場合は、自分の思いをちゃんと伝えれば、どうということはありません。それでも、そしられるなら、そういう人とは付き合わなければ良いだけのことです。しかし、社会的なレベルでこれが起きますと、これは中々大変です。しかしこれも、私共が神様と共なる善き業に励むことによって、少し時間はかかっても、乗り越えられていくでしょう。事実、キリストの教会は乗り越えてきました。
そこで大切なことは、1節で告げられていることです。「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」私共は弱いですから、周りから酷く言われたりしますと、キリストに救われた恵みからも離れて、何とか自分を守ろうとするかもしれません。しかし聖書は、イエス様でさえ十字架の上で苦しまれたのだから、苦しいからといって神様から離れてしまえば、元の木阿弥になってしまう。だから、イエス様が神様の御心に従うために十字架に向かって歩まれた心構え、覚悟をもって武装しなさい、と言うのです。勿論、武装というのは、心の武装です。キリスト者には、この覚悟が求められています。この覚悟がなければ、生涯キリスト者であり続ける、キリスト者としての歩みを全うすることは難しいのではないでしょうか。そこではっきり弁えておかなければならないことは、イエス様は十字架にお架かりなったけれども復活されたこと、そして天に昇られたということです。私共は、このイエス様と一つにされたのですから、この地上の生涯において困難なことに出遭っても、それで終わるわけではありません。そして私共は、イエス様が再び来られる時に、キリストに似た者として復活の命に与り、父・子・聖霊なる神様との永遠の交わりに招かれます。このことについて、今朝与えられた御言葉6節において、「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」と告げています。確かに、キリスト者もそうでない者も、みんなこの地上の生涯を閉じなければならない時が来ます。例外はありません。それならば人間の見方からすれば、キリスト者もキリスト者でない者も同じように見えるでしょう。しかし、キリストを信じてこの地上の生涯を閉じた者は、神様の裁きによって滅ぶのではありません。神様との関係においては全く違います。福音を知らされて、イエス様の救いに与ってこの地上の生涯を閉じた者は、霊においては、神様の裁きによって滅ぼされることはなく、神様と共に生きる。永遠に生きる。復活の命に生きる。このことをしっかり心に刻んで、この地上での歩みを為していく。それがキリスト者なのです。
お祈りします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉によって、キリスト者とは何者であり、どこに向かって歩む者であるかを教えてくださいました。感謝いたします。私共はまことに弱い者です。困難に出遭えば、あなた様の愛と真実、あなた様に救われている恵み、私共に与えられている肉体の死を超えた永遠の命の祝福さえも、信じ切ることが出来なくなってしまうような者です。どうか、聖霊なる神様が日々新たに信仰を与え、自分の欲望に引きずられることなく、あなた様の御心に従って、キリスト者としてしっかり歩んで行くことが出来ますよう、私共を支え、導いてください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2024年2月4日]