日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「試練はあるが」
詩編 22編2~22節
ペトロの手紙一 4章12~16節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
先週の水曜日からレント、受難節に入りました。キリストの教会は、イースターの前の主の日を除く40日間を、イエス様の御苦難を覚える、悔い改めの期間としてきました。中世においては、この期間は音曲の禁止、飲酒の禁止ということがありました。その前に食べて、飲んで、歌って愉しもうということで生まれたのがカーニバル(謝肉祭)です。どうして40日なのか。多分、イエス様が荒野の試みに遭われた40日に重ねているのでしょう。私共のために、私共に代わって悪魔の誘惑を受け、それを退けられ、十字架への道を歩まれたイエス様の歩みを心に刻む。そして、イエス様の復活による勝利に共に与る者として、この地上における信仰の歩みを整える。様々な誘惑・試練に惑わされることなく、御国に向かっての歩みを確かなものとする時。それがレント、受難節です。
 レントに入りますと、思い起こすことがあります。もう、古い信徒の方でも知っている人は少なくなったかもしれませんけれど、以前は「克己献金(こっき献金)」というものが、多くの教会でこの期間に献げられていました。今も為されている教会もありますが、少なくなりました。この克己献金というのは、「己に克つ」と書いて克己です。この期間、お酒を断つとか、アイスクリームを断つとか、ケーキを断つとか、何か自分で決めて、その分を献げるというものです。日々の生活の中で、御子の御苦難を覚えていくには、良い習慣だと思います。

2.迫害の中で
 私共はペトロの手紙一を読み進め、御言葉を受けていますが、前回は4章11節の「栄光と力とが、代々限りなく神にありますように、アーメン。」という言葉で終わっていました。ペトロの手紙は、ここで一旦終わっていたのではないかと考える人がいます。或いは、そうであったかもしれません。しかし、ペトロの手紙一はここでは終わらずに、今朝与えられている御言葉へと続いています。この4章12節以下で記されていることの特徴は、具体的な迫害が起きている、或いはそのような状況がとても近づいて来ているような、緊迫したものを感じさせる言葉が多く使われているところです。勿論、この手紙自体がそのような状況の中にあるキリスト者を慰め、励まし、支えるために記されたと思われますが、特に12節以下には、そのことが顕著に現れています。例えば12節の「身にふりかかる火のような試練」とか、14節の「キリストの名のために非難される」、16節の「キリスト者として苦しみを受ける」、或いは5章8節の「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。」など、具体的に信仰が原因で起きる迫害やキリスト者が受けた苦しみを思い起こさせる言葉が多く出て来ます。ペトロは、このような状況にある人たちのことを思うと、どうしても書き加えないではいられなかったのだろうと思います。
 現代の日本においてそのような状況になることは、あまり考えにくいかもしれません。私共キリスト者に対する視線は、戦前・戦中と現在とでは随分違います。キリスト者だからといって、非国民などと言われることはありません。もっとも、キリスト教については今でも良く知られていないですから、何か異質なものを見る目で見られるということはあります。洗礼を受けるとか、結婚するという時には、難しいことが起きる場合も良くあります。しかし、世界的に見ますと、状況はそんなに楽観出来るものではありません。国際的な超教派のキリスト教迫害監視団体「オープン・ドアーズ」という団体があります。この団体は毎年、世界中でのキリスト教迫害状況のレポートを出しています。その最新版の「ワールド・ウォッチ・リスト」によりますと、現在、世界では3億6千万人以上のキリスト教徒が、信仰に基づく差別や迫害を受けています。これは実に世界のキリスト教徒の7人に1人に相当します。とんでもなく多くの人たちです。そして、厳しい差別・迫害が起きている国を順に挙げています。一位はアフガニスタン、二位は北朝鮮です。以下、ソマリア、イエメン、エリトリア、リビア、ナイジェリア、パキスタン、イラン、と続きます。キリスト教に対して迫害が起きている国では、宗教的な少数者の他に、民族的な少数者たちも酷い目に遭っています。ちなみに、インドは11位、内戦が続くシリアは12位、国軍によるクーデターが起こったミャンマーは14位、中国は16位となっています。また、このレポートで驚いたのは、ナイジェリアではこの一年間に、キリスト者であるという信仰を理由に殺害された人が5000人を超えたということです。こうしたことは、日本ではほとんどニュースにもなりません。しかし、私共はこのような時代の中で生きているわけです。多分、このような状況は、2000年の間ずっと世界中で起きていたのだろうと思います。

3.試練はある
 新約聖書の中には、このような迫害を思い起こさせるような言葉が、ペトロの手紙以外にもたくさんあります。例えば、ヘブライ人への手紙10章32~34節にはこうあります。「あなたがたは、光に照らされた後(これは信仰を与えられた後ということです)、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。」と記されています。キリスト者であるが故に酷い目に遭わされるということは、少しも珍しいことではなかった。しかし、それでもなお、キリスト者はキリスト者であり続けました。神様の愛と恵みと真実を知らされたからです。神様を、イエス様を愛する者になったからです。そして、まことの救い、永遠の命を与えられていることを知っていたからです。キリスト教の信仰というものは、単に教えを信じるということではありません。生ける神様との交わりを与えられ、愛し、信頼するということです。だから、信仰を捨てることはなかった。それは、自分の妻や夫、或いは我が子を見捨てたり、裏切ったりすることは出来ないというというのに似ています。
 今朝与えられた御言葉は12節「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」と語り始めます。私共はイエス様を信じる者となり、神様との親しい交わりに生きる者となりました。神様はこの世界のすべてを支配し、また私共を愛してくださっています。そうであるならば、私共が酷い目に遭うことなんてあるはずがない。そう考えるのが普通でしょう。しかし、聖書は「火のような試練」も驚くには当たらない。そういうことは起きるものなのだと告げているわけです。私共は「え~っ、どうして??」と思います。誰もそんな目には遭いたくありません。しかし、聖書は、そのような目に遭っても思いがけないことのように驚くなと告げます。この地上の歩みにおいては、そういう目に遭うことは珍しくないし、それは私共が神様に愛されていないからでも、神様の御支配が揺らいでいるからでもない。キリストに従っていく中で、どうしても起きることなのだと告げているわけです。この手紙の最初、1章6節b~7節において「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」と告げられている通りです。

4.御国への道のり
 私共がそのような目に遭うのは「試練」であり、私共の信仰が本物であることが証明されるためのものなのです。そして、その苦しみは「キリストの苦しみ」なのだと言うのです。それはこういうことでしょう。イエス様は十字架の苦難を経て、復活の恵み、昇天の勝利へと至りました。そのイエス様と一つにされたキリスト者は、イエス様と同じように苦難を経て、勝利の栄光へと至ることになる。ですから、この地上における苦難は試練であって、その苦しみはイエス様と一つにしていただいた「キリストの苦しみ」なのだから、「キリストの栄光が現れるとき、喜びにあふれる」ことになる。だから、「喜べ」と告げるのです。これはペトロが言いだしたことではありません。イエス様御自身が告げられていたことです。
 イエス様は山上の説教の冒頭、祝福を告げる所の最後で、イエス様はこう言われました。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書5章10~12節)イエス様が告げられたように、迫害され、ののしられ、悪口を浴びせられることがある。しかし、イエス様はそのような目に遭うあなたがたは幸いです。何故なら、天の国はあなたがたのものだからです。だから、喜びなさい。大いに喜びなさい、と告げられたました。迫害に遭い、信仰の故に酷い目に遭い、それでも喜ぶ。いや、そうであればこそ、いよいよ喜ぶ。それは、御国に入る道が確実に備えられた証拠だからです。この御国への希望。これこそ、ペトロたちがキリスト者たちを慰め、励ましてきた根拠です。

  5.イエス様と共なる試練
私共は信仰の歩みにおいて、様々な誘惑や試練に遭います。今、「誘惑や試練」と申しました。しかし、元のギリシャ語では「試練」と訳される言葉と「誘惑」と訳される言葉は、同じです。今朝与えられている御言葉においては「試練」と訳されていますが、イエス様が荒野で悪魔に三つの試みに遭われた場面(マタイによる福音書4章1~11節)では「誘惑」と訳されています。あの時、悪魔はイエス様に三つの誘惑を試みました。第一に「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と告げ、第二に神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と告げました。そして、第三に「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これ(この世の富・栄華)をみんな与えよう。」と告げました。イエス様はこの悪魔の誘惑をことごとく退けられました。イエス様は神の子なのですから、悪魔の誘惑を退けたのも当然だと思うでしょう。しかし、この誘惑を退けることによって、イエス様の十字架への道は確定しました。パンを与えることによって人々を救うのでもない。奇跡で人々の関心を集めて神の子として祭り上げられるのでもない。富や栄華をもって、人々の上に立つのでもない。ただ十字架の道だけが残されました。それは、神様がイエス様に与えられた誘惑、試練でした。しかし、それだけではありません。この時、イエス様が悪魔の誘惑を退けられたのは、私共のために、私共に代わって退けられたということでもありました。私共は様々な試練に遭う時、最も辛く厳しいことは、自分が独りで苦しんでいると思う時です。確かに、病気の辛さや痛みは、他の人には分かりません。しかし、その時私共は独りではありません。イエス様が共にいてくださるからです。イエス様が私共と共に、その辛さを担い、痛みを負ってくださっている。だから、「私の苦しみ」が「キリストの苦しみ」となります。そして、イエス様は「わたしの勝利を見よ。あなたのためにわたしが備えた御国を見よ。」そう告げてくださいます。私共の眼差しが、この地上の生涯における幸いだけを求めているのならば、私共は誘惑にすぐに負けてしまい、試練に耐えることは出来ないでしょう。しかし、眼差しがしっかり御国に向けられているならば、私共はイエス様が共にいてくださることも、そのイエス様が語りかけてくださる言葉も聞き取ることが出来ます。そして、試練に勝利することが出来ます。

6.恥じてはいけません
さて、14節に「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」そして16節に「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」とあります。つまり、神様の御前で何らやましいところはないのだけれど、周りの者から非難されたり、キリスト者であるというだけで苦しめられるならば、それは恥ずべきことではない。それどころか、栄光の霊、神の霊が私共の上にとどまってくださることだ。つまり、誇るべきことだと告げているわけです。
 この「恥じてはなりません」という御言葉を読むと、私は一人の伝道者を思い出します。小原十三司(おばら とさじ)という牧師です。小原十三司牧師は戦前・戦中・戦後とホーリネス教団の中心的な牧師でした。彼は先の大戦の時(昭和17年)に、特高警察によって検挙され、昭和20年8月の敗戦によって釈放されるまで2年間、刑務所に入れられた牧師です。罪状は、あの悪法であった治安維持法違反ということでした。小原十三司牧師は現在の淀橋教会の4代目の牧師でした。現在の淀橋教会は山手線の新大久保の駅のホームから目の前に見える大きな教会です。そのころも淀橋教会は毎週400名近くの会衆が礼拝に集う大教会でした。太平洋戦争が始まり、キリスト教は敵性宗教とされ、キリスト者であることを公に出来なくなっていくような時代の中で、小原十三司牧師は捕らえられ、教会は解散命令を受けました。小原牧師にはお子さんがいました。まだ子供だったお子さんたちは、学校では「お前の父ちゃんは警察に捕まった、悪い奴だ。」と言われ、「キリスト教は悪い宗教だ。」と言われる。本当に悔しく、辛かったでしょう。その時、小原牧師の奥様の鈴子さんは、子どもたちにこう告げたそうです。「あなたたちは、お父様を恥じてはなりません。お父様がこのような苦難を受けるほどの者として神様に選ばれたことを、誇りとしなさい。」凄い言葉です。これは、この言葉を聞いた小原十三司牧師のお嬢様が、ご自分のお子たちに後に話されたことです。私は小原十三司牧師のお孫さんの牧師から、この言葉を聞きました。小原牧師の奥様が子どもたちに告げた言葉は、この「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。」と同じです。この御言葉に生きていたのですね。

7.キリスト者として
 もう、そんな時代が来ないことを心から願います。今、15節を飛ばしましたけれど、15節に記されているのは、人殺しや泥棒といった悪いことをして、苦しめられることがないようにしなさいということです。同じ苦しみを受けると言っても、或いは同じ刑務所に入れられるでも、犯罪を犯して捕らえられるのと、キリストの御名の故に捕らえられるとでは、全く話が違います。聖書は、そんなことで苦しめられるようなことになってはなりませんと告げます。当たり前のことです。それは、神様の御名を、キリストの御名を汚すことにしかならないからです。
 最後に、16節にあります「キリスト者」という言葉に注目して終わります。「キリスト者」英語で言えばクリスチャン(Christian)ということです。私共が何気なく使っているこの言葉は、意外かもしれませんが、聖書では3箇所しか使われていません。使徒言行録11章26節、26章28節とここだけです。使徒言行録11章26節には、「アンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」と記されています。ですから、この「キリスト者」という言葉は、キリスト者が自分で言いだしたのでありません。周りの者たちがこのように呼ぶようになった。その経緯についてはよくは分かりませんけれど、何かといえば「キリストが」「キリストによって」「キリストはこう言われた」などと言っていたので、あいつらは「キリスト野郎だ」と言われたのでしょう。決して良い意味で付けられた呼び名ではなかった。しかし、代々の聖徒たちはこの呼び名を受け入れました。このように呼ばれるようになったのは、偶然かもしれませんけれど、本当にもの凄いことだと私は思います。テレビで「冠番組」という言い方があります。あるタレントの名前を付けて呼ばれる番組のことです。「ドリフの大爆笑」とか「ブラタモリ」「さんまのまんま」といったものです。冠番組を持つようになったら、一流、超一流のタレントだと言われます。私共は「キリスト者」という、神様の御子であるお方の名前、キリストを冠にして呼ばれるわけです。これは本当にもの凄いことです。改めて、キリスト者と呼ばれることに身が引き締まる思いがいたします。私共が言うこと、やること、それは「キリスト者」の言葉、「キリスト者」の行いとして、人々に受け止められてしまう。私共は、「私じゃなくて、神様、イエス様を見てください。」と言いたくなるかもしれませんけれど、「キリスト者」と呼ばれる者である以上、それは畏れと感謝と喜びと、そして誇りをもって受け入れていかなければならないのでしょう。私共はキリストの者なのです。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、御言葉を通して、私共がこの地上の歩みにおいて試練に遭うこと、それを喜んで受け止めること、御国の勝利が約束されていること、そしてやがて喜びに満ちあふれることを教えてくださいました。ありがとうございます。私共は弱く、愚かで、目の前のことしか見えないような者ですけれど、どうか聖霊なる神様が私共に信仰を与えてくださり、私共の眼差しを御国に向かって高くあげさせてくださいますように。そして、試練の中にあっても、喜びをもって、誇りをもって歩まさせてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2024年2月18日]