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礼拝説教

「危機一髪」
サムエル記上 18章28節~19章18節
ガラテヤの信徒への手紙 5章16~21節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
今朝は2月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けていきます。サムエル記上の19章です。前回サムエル記上18章から御言葉を受けたのは、11月の最後の主の日でした。3ヶ月も前ですので、少し振り返っておきましょう。
 17章では、ダビデとペリシテの大男の戦士ゴリアトが戦いました。ダビデは鎧も着けず、剣も持たず、石投げ紐と石一つでゴリアトを倒しました。これはイスラエルとペリシテの全軍勢が見ている前での一騎打ちでした。ダビデ物語の中で一番有名な所です。ダビデが大男の戦士ゴリアトを倒したことによって、ペリシテは敗走しました。これが、ダビデのいわゆるデビュー戦です。18章には、それからダビデはサウル王に仕えるようになり、出陣するたびに勝利を収めたと記されます。そして、人々は「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」と歌いました。これがサウル王には気に入りません。サウル王はダビデをねたむようになります。そして、傍らで竪琴を奏でるダビデを槍で突き刺そうとまでしました。ダビデはこの時、身をかわして難を逃れました。次に、サウル王は自分の二番目の娘ミカルと結婚するための条件として、結納金の代わりにペリシテ人の陽皮百枚を求めます。陽皮というのは、男性の生殖器の先端の皮のことです。イスラエルの民は、生まれてすぐに割礼を受けていますので、陽皮はありません。サウルは、無割礼の民ペリシテ人を百人殺して、その証拠を持ってくることを求めたわけです。それは、ペリシテ人の手によってダビデが殺されることを願ったからでした。ところが、何日もたたないうちにダビデは二百枚のペリシテ人の陽皮を持ち帰りました。サウル王の目算は完全に外れ、サウル王はダビデを娘ミカルと結婚させることになりました。サウル王の目論見とは反対に、ダビデの名声はいよいよ高まり、王の娘と結婚して王の一族にまでなってしまいました。しかも娘ミカルはダビデを愛し、サウル王の息子ヨナタンもダビデを愛し、サウル王はいよいよダビデを恐れ、敵意を抱くようになりました。

2.サウル王の恐れ
サウル王は何を恐れて、ダビデに敵意を抱くようになったのでしょうか。多分、ダビデがイスラエル王としての自分の地位を脅かすことを恐れたのでしょう。更に言えば、息子ヨナタンに自分の地位を譲りたいのに、ダビデによってそれも脅かされると思ったのでしょう。サウル王は、もうイスラエルの王としての神様の選びは自分からダビデに移っているということを感じ取っていたと思います。それは15章28節でサムエルがサウル王に対して「主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる。」と告げていたからです。その「すぐれた隣人」というのがダビデであるとまではサムエルから告げられていませんでしたけれど、それがダビデだとサウル王は気付いていたと思います。しかし、彼はそれを認めることは出来ませんでした。それが人間の罪というものだと、聖書は告げています。
 サウル王は元々は、イスラエル王としての立場、地位というものを、自分のものと考えるような人ではありませんでした。彼がイスラエルの初代の王として立てられたのは、9~10章に記されておりますように、神様によって選ばれたからでした。それまで、彼は王になるのに相応しい実績など何一つない若者にすぎませんでした。サムエルによって頭に油を注がれ、王として立てられるということを知らされても、彼は自分こそがイスラエル王に相応しいなどとは、全く考えておりませんでした。サムエルによって神様の選びを告げられた時も、「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族の者です。どんな理由でわたしにそのようなことを言われるのですか。」(9章21節)と答えたほどです。彼はサムエルによって油を注がれ、イスラエルの王となることを知らされておりながら、いざ人々の前でくじがひかれて自分が王として選ばれる段になると、「荷物の間に隠れて」(10章22節)いて、それを人々に見つけられ、連れて来られるという有り様でした。「嫌だ、なりたくない」という彼の気持ちが良く表れています。それを見て、人々の中には「こんな男に我々が救えるか」(10章27節)と言う人もいたほどでした。
 ところが、何年も、何十年もイスラエルの王として歩んで来る中で、彼は変わってしまいました。王としての様々な経験が、彼に王としての自信を与えました。確かに、彼はイスラエルを様々な戦いにおいて勝利へと導きました。しかし、それは神様がそのようにしてくださったからでした。けれども、いつの間にか、サウル王はそれを自分の手柄であると考えるようになってしまったわけです。勿論、サウル王もイスラエルの王として様々な知恵も絞り、工夫もし、努力もしたでしょう。しかし、「神様によらなければ」ことは起きません。ところが、サウル王は神の御業を自分の業と考え、イスラエルの王という自分の立場・地位を自分で手に入れたかのように考えるようになってしまいました。それは、全くの勘違いなのですけれど、この勘違いは気持ちの良いものでした。周りの人々の対応もそのような勘違いに一役買ったことでしょう。「サウル王は凄い、素晴らしい」と言われ続けていく中で、彼自身「自分は凄い」と思うようになっていきました。そして、ダビデが台頭してくると、サウル王はダビデを恐れ、敵意を抱き、遂にはダビデを殺そうとするようになってしまったのです。

3.ヘロデ王とサウル王
ここで私共は、イエス様が誕生された時のユダヤの王、ヘロデのことを思い起こします。イエス様がお生まれになった時、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイによる福音書2章2節)とヘロデ王に告げます。そして、それを聞いたヘロデ王は不安を抱きました。それは、まことのユダヤ人の王が生まれたとすれば、自分の王としての地位が危うくなるからです。それでヘロデ王は「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させ」(マタイによる福音書2章16節)ました。ひどい話です。でも、主の天使のお告げによって、ヨセフはマリアとイエス様を連れてエジプトに逃れましたので、ヘロデ王に殺されることはありませんでした。サウル王がダビデに対して抱いた思い、ダビデに対して行ったことと、ヘロデ王がイエス様に抱いた思いとイエス様に対してしようとしたこととは同じです。どちらも、自分の立場や地位を守るために、それを脅かす者を亡き者にしようとした。人間とはここまでしてしまうものだと、聖書はここではっきりと人間の罪を私共に示しています。私共は王様でもありませんし、そんな力も地位もありません。しかし、小さなヘロデ王、小さなサウル王になってはいないか。私共はそのような歩みをしてはいけない。ヘロデ王やサウル王のようになってはけない。そう聖書は私共に語りかけています。神様の御手の中にある自分を知り、神様に栄光を帰して、主を誉め讃えつつ歩みなさい。そう聖書は私共に促しています。

4.ヨナタンとダビデ
 さて、19章は「サウルは、息子のヨナタンと家臣の全員に、ダビデを殺すようにと命じた。」と始まります。サウル王はペリシテ人の手によってダビデを葬ろうとしましたけれど失敗しました。そこで今度は、イスラエル王として「ダビデを殺すように」と息子ヨナタンと家臣たちに命じました。理由をどう説明したのか、聖書は告げていません。多分、サウル王の家臣たちはダビデの活躍を目の当たりに見ているわけですから、この理不尽な命令には戸惑ったでしょう。しかし、家臣たちが王にそのようなことを直接言えるわけもありませんでした。サウル王の息子ヨナタンはダビデに深い愛情を覚えていたので、ダビデにこのことを伝えました。2~3節「注意して隠れ場にとどまり、見つからないようにしていなさい。あなたのいる野原にわたしは出て行って父の傍らに立ち、あなたについて父に話してみる。様子を見て、あなたに知らせよう。」とヨナタンはダビデに告げます。そして、ヨナタンは父のサウル王にこう話します。4~5節「王がその僕であるダビデのゆえに、罪を犯したりなさいませんように。彼は父上に対して罪を犯していないばかりか、大変お役に立っているのです。彼が自分の命をかけてあのペリシテ人を討ったから、主はイスラエルの全軍に大勝利をお与えになったのです。あなたはそれを見て、喜び祝われたではありませんか。なぜ、罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか。」ヨナタンが言っていることは、実に真っ当なことです。サウル王は反論しようがありません。そして、6節「サウルはヨナタンの言葉を聞き入れて誓った。『主は生きておられる。彼を殺しはしない。』」とありますように、サウル王は息子ヨナタンに説得されます。ダビデを殺さないことを、サウル王は神様に誓ったのです。ここで一旦、サウル王はダビデを殺そうとすることを止めました。ヨナタンはダビデにこのことを告げ、ダビデはサウル王のもとに戻ります。ダビデは、その後もペリシテとの戦いに出陣し、そのたびに手柄を立てて帰ってきました。

5.再び悪霊がサウル王に
 ところがです。9~10節「ときに、主からの悪霊がサウルに降った。サウルは館で槍を手にして座り、ダビデはその傍らで竪琴を奏でていた。そのとき、サウルがダビデを壁に突き刺そうとねらったが、ダビデはサウルを避け、槍は壁に突き刺さった。ダビデは逃げ、その夜は難を免れた。」一度はヨナタンに説得されたサウル王でしたが、再び、傍らで竪琴を奏でてサウル王を慰めていたダビデを槍で突き刺そうとしました。ダビデはこの時も何とか難を逃れることが出来ました。これでサウル王の槍から逃れたのは二度目です。よく逃れることが出来たと思います。
 この時のサウルの行動は「主からの悪霊がサウルに降った」のが原因であると聖書は告げています。これをどう読むのか、どう理解するのか、中々難しい所です。「主からの悪霊」とありますので、サウル王がダビデを殺そうとしたのは、神様がそのようにされたからだとも読めます。神様はどうしてそんなことをされたのか、よく分かりません。私はこのように受け止めて良いのではないかと思っています。「魔が差す」という言葉があります。私共は自分でも何とも説明出来ないようなことをしてしまうことがあります。ある時、押さえていた思いが溢れて、気が付いたら、もうやってしまっていた。この時のサウル王の行動は、まさに「魔が差した」行動であったように思います。自覚的に、先のことまで考えて覚悟の上でこのような行動に出たというよりも、気付いたら槍を手にしてダビデを刺そうとしていた。そんな感じではなかったかと思います。しかし、この後ダビデはサウル王が死ぬまで、逃亡の身となります。この時は一時の気の迷い、魔が差したのかもしれませんけれど、このことが引き金となって、サウル王は悪霊の支配に身を投じることになってしまった。その一歩をここで踏み出してしまった。そのように私には思えます。この後、サウル王はいつでも、何度でも、ダビデとの関係を回復することは出来ました。自分が王として「ダビデを殺すことは止めた。」と言えば良いだけです。しかし、彼はそうしませんでした。彼の心はどんどん硬くなっていきました。悪しき霊は私共の心を硬く、頑なにします。しかし、聖霊は私共の心を柔らかにします。聖霊は私共の歩みを悔い改めさせ、新しくやり直そうという一歩へと私共を導きます。それが心を柔らかにされるということです。しかし、悪しき霊は私共の心を硬くさせ、自分が変わることを拒否させます。私共は聖霊の導きを願い求めてまいりましょう。ヘブライ人への手紙3章15節にこう告げられている通りです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」

6.ミカルとダビデ、そしてサムエル
ダビデがサウル王の槍から逃れたその夜、ダビデは自分の家に戻りました。家には自分の妻であり、サウル王の娘であるミカルがいました。サウル王は次の朝にダビデを殺すため、ダビデを一晩中見張らせました。しかし、ミカルは父のやろうとしていることを見抜いて、その夜の内にダビデを窓からつり降ろして逃がしました。
 この後のミカルの行動と言葉には、ミカルの知恵が良く現れています。ミカルはダビデを逃がすと、ダビデの寝床にテラフィム(これは家の守り神の機能を持つ像で、等身大のものから手のひらサイズのものまでありました。後には偶像として排されますが、この時代はまだ許容されていました。)を置き、その頭に山羊の毛をかぶせ、着物で覆いました。寝床にダビデがいるように見せかけたわけです。サウル王の使者が来ますが、ミカルは「ダビデは病気です。」と言って、時間稼ぎをします。少しでも時間を稼いで、ダビデを遠くに逃がそうとしたのでしょう。サウルはダビデを見舞うのだといって使者を再び遣わしますが、今度は「寝床ごとわたしの所に担ぎ込め。殺すのだ」と命じていました。使者が来ると、ダビデの寝床にはテラフィムが置かれているだけでした。サウル王は「このようなことをしてわたしを欺いたのはなぜだ。」と娘ミカルを問い詰めます。ミカルは「あの人は、『わたしを逃がせ。さもないとお前を殺す』と脅しました。」と答えました。この答えは、自分の潔白を主張し、我が身の安全を確保する、実に賢い答えです。これではサウル王もミカルを責めることは出来ません。
 こうしてダビデは、危機一髪、逃れてサムエルの所に行き、彼にかくまってもらうことになります。

7.助け手が備えられる
ダビデはサウル王の手から無事に逃れることが出来ましたが、この時からダビデはお尋ね者となってしまいます。そして、ずっとサウル王から逃れ続けていくことになります。しかし、この最初の危機を脱出した時、ダビデにはヨナタン、そしてミカル、更にはサムエルという助け手が備えられておりました。このことは、とても大切なことを私共に教えてくれます。この聖書の箇所には、「神様がダビデを助けた」という言葉は出て来ていません。しかし、ダビデを助け、逃がすために具体的に我が身を惜しまずに働いてくれた「助け手」が登場します。ヨナタン、ミカル、サムエルという人たちです。この人たちは、神様から遣わされた人とは言われていませんけれど、明らかにダビデを守るために働いた人たちです。神様の守りや導きというものは、このような具体的な人を備えることによって、私共に与えられています。それはヨナタンのような、友情で結ばれた人かもしれません。或いはミカルのような、夫婦・家族という関係の人、妻あるいは夫かもしれません。父や母、或いは我が子ということもあるでしょう。私共を愛し、それ故に精一杯の努力を惜しまず、知恵を用いて、何とか私共を守り、支えようとする人がいる。それが神様の愛の現れ、神様による助ける業の現れです。ダビデは確かに知恵もあり、信仰もあり、神様に選ばれた特別な人でした。しかし、彼一人で何かが出来たということではありませんでした。ダビデは、周りの者に支えられ、助けられ、生かされていきました。それは彼が神様に愛され、神様の守りの中で生かされた人だったからです。このダビデの上に注がれた神様の愛、ダビデを守った神様の御手は、私共にも備えられています。思い起こしてください。皆さんにもヨナタンが、ミカルがいるでしょう。そこに神様の愛が現れています。

8.詩編59編
 このサウル王に殺されそうになった時のことを、ダビデは詩編で歌っています。詩編59編です。1節のト書きの所にはこうあります。「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき。」まさに、今朝与えられた御言葉の場面です。きっと、この時のことを思い起こして歌ったのでしょう。2~5節まで読みます。「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し、立ち向かう者からはるかに高く置いてください。悪を行う者から助け出し、流血の罪を犯す者から救ってください。御覧ください、主よ、力ある者がわたしの命をねらって待ち伏せし、争いを仕掛けて来ます。罪もなく過ちもなく、悪事をはたらいたこともないわたしを打ち破ろうとして身構えています。目覚めてわたしに向かい、御覧ください。」この詩編は、人生の中で理不尽な苦しみを味わった聖徒たちが、自分の思いを重ね合わせて歌ってきました。ダビデにしてみれば、この時、どうしてサウル王が自分を殺そうとするのか、さっぱり分からなかったでしょう。悪いことをした覚えがないからです。辛いことですけれど、この時のダビデと同じように、身に覚えのないことによってひどい目に遭う。そういうことがある。
 この日ダビデは、命からがらサウル王の館があったギブアから、サムエルがいるラマに逃げて行きました。ギブアとラマはそれほど離れていませんので、数時間で着いたと思います。夜中の間走り続け、ダビデはラマで朝を迎えたのでしょう。そして、この詩編は17~18節「わたしは御力をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。わたしの力と頼む神よ、あなたにほめ歌をうたいます。神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ。」と歌って閉じられます。神様が助けてくださった。そのことを思い、神様に感謝し、賛美しました。神様は私共の「砦の塔」であり、「逃れ場」です。神様を寄り頼むならば、神様はその全能の力をもって様々な助け手を送り、出来事を起こし、私共を守ってくださいます。この主を今、共々に誉め讃えましょう。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
 あなた様は今朝、ダビデの物語を通して、理不尽な苦しみに遭っても、神様は私共に助け手を備えてくださり、私共を守り支えてくださることを教えてくださいました。既に私共には様々な助け手が与えられております。感謝いたします。どうか、魔が差すことがありませんように。聖霊なる神様の導きの中で、御言葉に導かれて、健やかに御国への道を歩む者であらしめてください。私共の唇に、あなた様への賛美と感謝と祈りをいつも備えてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2024年2月25日]