1.はじめに
イエス様の御苦難を覚えるレントの日々を歩んでいます。マタイによる福音書が告げるイエス様の十字架への歩み、十字架の上で息を引き取られたその日の一日の出来事から御言葉を受けています。先週は、イエス様がユダヤの自治組織である最高法院で裁かれた場面から御言葉を受けました。次々に偽証する人が立ちましたけれど、複数の証言が一致せず証拠にはなりませんでした。その間、イエス様は何を言われようと黙っておられました。そして最後に、最高法院の議長である大祭司自らが「お前は神の子、メシアなのか。」とイエス様を問いただします。この問いに対してはイエス様は黙り続けることなく、訳し方は色々ありますけれど、肯定しました。これを否定すれば、十字架に架けられることはなかったかもしれませんけれど、それではイエス様は何のために来られたのか分かりません。神の御子であるメシア(キリスト)が、罪人のために、罪人に代わって十字架の裁きを受ける。それが、天の父なる神様の御許からイエス様が遣わされて来た目的だったからです。大祭司はイエス様のこの言葉を聞いて「神を冒瀆した。」と叫び、最高法院の議員たちは「死刑にすべきだ。」と言いました。これで、イエス様が死刑にされることは決まりました。しかし、まだ十字架に架けられるかどうかは決まっていません。そのことが決まったのは、ローマの総督ポンテオ・ピラトによる裁判においてでした。今朝与えられている御言葉は、その場面です。
2.ピラトのもとへ
最高法院と訳されています「サンヘドリン」というユダヤの自治組織において、イエス様は死刑に処せられることが決まりました。ところが、最高法院の人たちは、ローマから遣わされているユダヤの総督ポンテオ・ピラトのもとにイエス様を連れて行きました。最高法院の人たちは、イエス様を死刑にしようと思えば出来ました。ただ、それは「石打ちの刑」によるものでした。石打ちの刑というのは、旧約以来のユダヤにおける処刑の仕方です。彼らはそうすることが出来ました。しかし、そうはしませんでした。どうしてでしょうか。どうして、そんなまだるっこしいことをしたのでしょうか。一つには、自分たちの手を汚さないためではなかったかと思います。ローマの手によってイエス様が殺されるならば、「あれはローマがやったことだ。自分たちには責任がない。」そう言いわけすること出来るからでしょう。イエス様を捕らえ、裁判にかけ、死刑にすることを決めたのは自分たちです。しかし、その責任は取りたくない。イエス様の十字架への歩みにおいて、この責任を取りたくない、取らない「無責任という罪」が、何度も出てきます。まずここで、大祭司を頂点とする当時のユダヤ教、ユダヤ社会の指導者たちの無責任という罪が顕わにされています。
もう一つの理由が考えられます。こちらが根本的ですが、それは申命記21章23節に「木にかけられた者は、神に呪われたもの」と記されています。つまり、石打ちの刑ではなく、十字架に架けられて殺されるというのは、単なる死というだけではなくて「神様の呪い」を受けるということでした。イエス様をただ亡き者にするだけではなくて、神様に呪われた者とする。それが彼らの目的だった。神様に呪われた者に従う者はいないだろうということです。しかし、このことがかえって、神様の御心を満たすことになります。つまり、イエス様は十字架に架けられて死ぬことによって、すべての罪人の呪いを我が身に受けることになります。そのことによって、罪人に対する神様の呪いは解かれ、罪人が神様の祝福を受ける者とされる。つまり救われるという道が拓かれました。このために、イエス様は十字架に架けられた。そして、その十字架刑というものはローマの刑罰でしたから、ローマによって裁かれ、ローマによって執行されなければなりませんでした。
3.ピラトの尋問
こうしてイエス様はポンテオ・ピラトのもとに連れて来られました。最高法院における罪状は「不敬罪」「冒瀆罪」ということでしたけれど、ローマはこのような罪状では死刑にすることは決してありません。ローマ帝国は多くの民族を支配・統治していましたので、このように各民族の持っている宗教や風習には関わらないというのが基本でした。そうでなければ、ローマ帝国のような広大な帝国が長く続くはずがありません。この実例は、使徒言行録18章に記されております。パウロがコリントで伝道していた時、パウロはユダヤ人たちによってアカイア州総督であったガリオンに訴えられました。しかし、ガリオンの答えは、ローマの総督としての当たり前の答えでした。使徒言行録18章12~16節「ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、『この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております』と言った。パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。『ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。』そして、彼らを法廷から追い出した。」とあります。これが、ローマから遣わされた総督としての当たり前の判断、対応です。
ところが、ピラトはこの時、彼らを門前払いにはしませんでしたた。どうしてでしょう。その理由は、ピラトのイエス様に対する尋問の中に示されています。ピラトはイエス様にいきなりこう尋問しています。11節「さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると」とあります。この「ユダヤ人の王なのか」というイエス様に対する問いは、あまりに唐突ではないでしょうか。考えられることは、これが最高法院の人たちがイエス様をピラトに訴えた罪状だったということです。イエス様は御自身がメシア(キリスト)であることを認めました。このメシア(キリスト)をどう訳すかですが、救い主と訳すのが普通ですけれど、これを「ユダヤ人の王」と祭司長たちはピラトに訴えたのでしょう。確かに、彼らが理解するメシアにはそのような意味合いがありました。「ユダヤ人の王と言っている」となれば、それはローマに反抗し、反乱を計画している者だという意味にも取れます。言葉だけ聞けば、そう受け取るのが普通です。勿論、イエス様の国は神の国であって、地上の国ではありません。しかし、ユダヤ人からこのように訴えられれば、総督としては無視することは出来ません。祭司長たちは、ユダヤ教の内部の争いであればローマが関わろうとしないことを知っていました。ですから、どうしても関わらなければならないように策を立てて、イエス様を訴えたということなのでしょう。ピラトは祭司長たちの訴えをむげに退けることが出来ないように謀られてしまったわけです。
4.誰が裁き、誰が裁かれるのか
こうして、ピラトはイエス様を尋問し、裁くことになってしまいました。祭司長たちや長老たちは、総督ピラトの前で様々な訴えをするわけですけれど、イエス様は何もお答えになりませんでした。それは、イエス様は神様の御子として、神様の御心に従って十字架に架けられることを受け入れていたからです。その姿は、先ほどお読みしました旧約のイザヤ書53章7節に記されている「苦難の僕」の姿そのものでした。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」総督ピラトにとって、このイエス様の姿はまことに不思議でした。このまま反論しなければ殺されてしまうのに、ただ黙っている。そんな罪人を総督ピラトは見たことがなかったからです。自分が殺されそうになれば、我が身の潔白を語ったり、刑が軽くなるようにピラトにおもねったりするのが普通です。ピラトはそのような罪人をたくさん見て来ました。しかし、イエス様はそうではありませんでした。その姿は、ピラトから見れば不思議でしかありませんでした。更に、ピラトには、イエス様が自分に引き渡されたのは「ねたみ」のためであることが分かっていました(18節)。多分、ユダヤの総督として、ピラトは祭司長・律法学者・民の長老たちがイエス様に反感を持っていたのを知っていたでしょう。そして、イエス様を訴える者たちの言葉を聞き、イエス様が黙っている姿を見れば、イエス様が反乱を起こそうとしている者ではないということは、明らかだったのでしょう。
しかし、この裁判の根本的な問題はそこにあるのではありません。根本的な問題は、最高法院における裁判と同じ、ここでも人間ピラトが神様であるイエス様を裁いているということです。神様が人間を裁くのであって、人間が神様を裁くというのは全くあべこべです。この神様との関係におけるあべこべ、逆転現象、これこそが、罪によって生じる出来事です。人間の罪が最も端的に表れる出来事です。十戒の第一の戒めは「あなたはわたしのほかに何ものも神としてはならない」ですが、神様以外のものを神とすることは偶像礼拝だけではありません。最もよく為されることが、自分を神とし、その結果まことの神様を神様としないということです。ピラトも大祭司も祭司長たちも長老たちも、そのことには全く気付いていません。そして、それぞれが自分を守ることに汲々としています。神無き世界の現実、それがこのイエス様が裁かれるという出来事にはっきり現れています。
5.バラバかイエスか
総督ピラトは、ローマの法に従って裁くならば、イエス様を釈放しなければならないことを知っていました。そこで、祭りの時には囚人を一人釈放するという習わしを用いて、イエス様を釈放しようと思い付きます。そして、人々にこう提案しました。16~17節「そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。』」ここで「バラバ・イエス」という言葉が出来てきますが、今までの翻訳ですと、単に「バラバ」でした。これは写本の問題ですが、有力な写本に「バラバ・イエス」というのがあって、その写本を採用したということです。このバラバもイエスという名前だったということです。イエスというのはヘブライ語では「ヨシュア」で、ユダヤ人の間では全く普通の名前でした。そして、21~23節「そこで、総督が、『二人のうち、どちらを釈放してほしいのか』と言うと、人々は、『バラバを』と言った。ピラトが、『では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか』と言うと、皆は、『十字架につけろ』と言った。ピラトは、『いったいどんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続けた。」もう何を言っても無駄だとピラトは思いました。群衆は「イエスを十字架につけろ」「バラバを釈放しろ」と、シュプレヒコールのように叫び続けました。このままでは暴動になりかねない。ピラトはそれだけは避けたかった。ローマの官僚として、ユダヤにおける暴動を抑えることが出来なかったとローマに伝われば、自分の立場が危うくなるからです。この人々の声にピラトは圧倒されてしまいます。
しかし、どうしてこんなことになったのでしょう。20節にははっきりその理由が記されています。「しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。」イエス様を訴えた祭司長たちや長老たちが群衆を説得したのです。しかし、説得するほどの時間があったとは思えません。この群衆の中に、前もって祭司長たちの意を汲んだ者たちが何人もいたのでしょう。だから、群衆の声は一つになった。この場面は異様です。私はこの場面を思うからでしょうか、多くの人たちが大きな声で一つのことを叫んでいる状況は、どうも生理的に好きになれないところがあります。一人一人の意見や考えは、そんなに簡単に一つになるものではないでしょう。そこでは何かが働いている。そう感じてしまうからです。それは、現代においては、マスコミであったり、SNSである場合もあるでしょう。一つの意見だけが声高に告げられて、みんなが同調する時、私は何とも言えない違和感を感じます。この時の群衆の声と、聖書が告げる「聖霊による一致」とは、全く似て非なるものです。聖霊による一致は愛による一致です。敵を作って、その敵に対抗するために一つになるというのではありません。私共はその違いをよく弁えなければならないでしょう。
6.わたしには責任がない
ピラトは群衆の態度を見て、こう告げました。24節「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。』」この「群衆の前で手を洗った」というのは、ローマの風習ではありません。ユダヤ人の風習です。このこととわたしは関係ない、わたしの手は綺麗だということを示す行為です。そして、「この人の血について、わたしには責任がない。」と言い放ったのです。そして、バラバを釈放し、イエス様を十字架につけるために引き渡しました。
総督ピラトはこの時、群衆の声に負けました。しかし、それだけではありません。ヨハネによる福音書19章12節によれば、「そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。『もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。』」とあります。ここでは直接、ローマにこのことを報告するとは言っていませんけれど、「イエスを釈放するようならば、皇帝の友ではない。ユダヤ人の王と自称する者を助けるということは、ローマの秩序を破壊し、皇帝に背いている。ローマに反逆する者だ。このことをローマに報告しますよ。分かっていますよね。」そんな脅しをピラトにしていたわけです。ピラトは面白くなかったでしょう。ローマの総督である自分を脅すつもりかと、腹立たしかったに違いありません。しかし、そうであっても、ピラトは自分の身を守るために、イエス様を十字架に架けることを決定してしまいました。しかも「わたしには責任がない。」と言ってです。
しかし、ピラトには本当に責任がなかったのでしょうか。キリストの教会は、明確に総督ピラトの責任を追及するということをして来たわけではありません。しかし、多くのキリスト者が毎週の礼拝で信仰を告白するのに用いている使徒信条において、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と告白しています。当時のローマの皇帝の名前は忘れられましたけれど、彼の名は記憶されました。このことによって、ピラトの責任というものを、キリストの教会は忘れることはありませんでした。ピラトはやりたくなかった。しかし、最終的に決定したのはピラトでした。この責任は、神様の御前で無かったことにすることは出来ません。
7.バラバ
イエス様が十字架に架けられることになって、バラバはその日に十字架に架けられるはずだったのに、突然釈放されることになりました。バラバは驚いたことでしょう。そして、喜び喜んだことでしょう。彼がどういう人であったのか、色々な推測がなされてきました。群衆がこれほど助けようとしたのだから、きっと反ローマの暴動を起こしたユダヤ民族主義者だったのではないか。或いは、十字架に架けられるというのは、軽い犯罪で課せられることはないから、殺人、強盗といった凶悪犯だったのではないか。確かなことは分かりません。しかし、大切なことはそこではありません。イエス様が十字架に架けられることによって、バラバは助かったという事実です。この事実は、イエス様の十字架が何であるのかをはっきり示しています。イエス様の十字架は、十字架に架けられるはずだった者が助けられる、救われるという出来事を起こすものだということです。
バラバは確かに大変な犯罪を犯したのでしょう。しかし、救われました。イエス様が十字架に架けられたからです。このバラバは、今日の御言葉に出てきた祭司長たち・長老たち・ピラトそして群衆、そのすべての人たちを象徴しています。きっと、祭司長たち・長老たち・ピラトそして群衆も、バラバと一緒にされるなんてとんでもないと言うでしょう。しかし、人は皆、バラバなのです。私共はバラバと一緒にされたくない。祭司長たち・長老たち・ピラトそして群衆と一緒にされたくない。そう思うかもしれません。バラバのような人殺しではないし、自分の立場を守るために、あんなに偽証してまで人を陥れたことはない。あんなに無責任ではない。あんなにみんなと声を合わせて人をおとしめたことはない。そう思われるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。ここに出てきた人たちは、日常の生活の中で極悪人だったわけではありません。普通の人たちです。どちらかと言えば、良い人・立派な人と言われるような人たちでした。しかし、自分の身を守るため、或いは自分の立場やプライドを守るためには、自分のしていることを平気で正当化してしまう人でした。それが罪人ということです。そのどうしようもない罪人のために、つまり私共のために、イエス様は十字架にお架かりになり、神様の裁きを代わって我が身にお受けになってくださった。まことにありがたいことです。
8.新しい道
このイエス様によって自らの罪を知らされ、神様に赦しを求め、赦され救われた私共は、神様から新しい道を与えられました。それはイエス様と共に歩む道です。愛する兄弟姉妹と共に歩む道です。何よりも神様・イエス様を愛する者として歩む道です。もう自分で自分を守らなくても良い道です。イエス様が、神様が守ってくださるからです。神様が与えてくださった務めを、責任を持って為していく道です。そして、その道は御国へと続いています。この新しい道を与えられたことを喜び、感謝をもって健やかに歩んでまいりたいと心から願うものです。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を心から畏れ敬います。
あなた様は今朝、イエス様がポンテオ・ピラトのもとで十字架に架けられることになった場面の御言葉を与えてくださいました。私共の中には、自分の立場を守るために神様さえも裁いてしまうような、恐ろしい罪があることを知っています。しかし、そのような私共を、あなた様はイエス様の十字架によって一切の罪を赦し、あなた様との交わりを回復してくださり、「父よ」と祈ることが出来る者にしていただきました。まことにありがとうございます。あなた様の救いの恵みによって与えられました新しい道を、私共が御国に向かってしっかり歩んで行くことが出来ますよう、聖霊なる神様の守りと導きを心から願い求めます。どうか主よ、憐れんでください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2024年3月10日]