1.はじめに
今日から受難週に入ります。週報にありますように、受難週祈祷会を(火)・(水)・(木)と午前と夜に6回開きます。zoomで配信もしますので、ぜひ出席して祈りを合わせ、喜びのイースターを共に迎えたいと思っています。
イエス様は今週の金曜日に十字架にお架かりになり、死んで、墓に納められました。そして、週の初めの日、つまり日曜日に復活されました。次の主の日は、イエス様の御復活の出来事を覚えての、イースター記念礼拝となります。復活されたイエス様は、復活された後、40日にわたってその御姿を弟子たちに何度もお見せになり、弟子たちに語りかけて、一緒に食事もなさいました。イエス様はこの復活によって、御自身が神の独り子・キリストであることを明らかに示されました。そして、肉体の死では終わらない命があることを証しされ、私共がその命に与る道を開いてくださいました。このイエス様の復活の出来事こそ、キリスト教の中心にある出来事であり、ここからキリスト教は始まったと言っても良いでしょう。ですから、私共はイエス様が復活された日曜日に、イエス様の復活を覚えて礼拝をしているわけです。
しかし、ここで大切なことは、復活されたイエス様は、十字架にお架かりになったイエス様であったということです。イエス様はただ死んで復活されたというのではなく、十字架の上で死んで復活されました。ですから、この十字架の死の意味をしっかり受けとめませんと、イエス様の復活の意味もぼやけてしまって、よく分からないことになってしまいます。はなはだしくは、イースターを「春を迎える祭り」にしてしまい、ウサギと卵のお祭りにしてしまいます。クリスマスがサンタクロースのお祭りになりかねないように、イースターはウサギと卵の春祭りになりかねません。このイースターはキリスト教の命とでもいうべき祭りですから、心からなる感謝と喜びをもって迎えたいと思っています。
2.十字架上の言葉
今朝与えられました御言葉は、「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」と始まります。マルコによる福音書によれば、イエス様が十字架につけられたのは朝の9時、息を引き取られたのが午後3時です。ですから、イエス様が十字架につけられてから3時間ほどして全地が暗くなり、イエス様が息を引き取るまでそれは続いたということになります。これを皆既日食のような自然現象として理解する人もおります。或いはそうだったのかもしれませんけれど、もっと大切なことは、まさに「世の光」であるイエス様が死のうとしているその時、「世の光」が消えようとしている、そのことを「全地は暗くなり」という言葉で聖書は伝えようとしているということです。「世の光」そのものであられるイエス様がいなくなれば、誰がまことの神様の御心を、愛を、真実を証しすることが出来るでしょうか。しかし、この「世の光」がまさに十字架の上で消えてしまうかのように見えたその時、実は「永遠のまことの光」が輝き始めていました。しかし、そのことに気付いている人はいませんでした。この「永遠のまことの光」が人々に分かるように輝きだしたのが、復活の出来事でした。この「永遠のまことの光」は、まさに人の目にはもう消えそうに見えたとき、十字架の上でイエス様が息を引き取ろうとしたときに、輝き始めました。しかし、それはまだ誰の目にも隠されていました。復活の時まで隠されたままでした。
3.旧約(詩編22編)の祈り
イエス様は十字架の上で息を引き取るときに、こう大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」何かの呪文のように思われるかもしれませんが、そうではありません。当時、イエス様が話されていた言葉は、アラム語でした。これはヘブライ語ととても似ている言語ですが、「エリ、エリ」これはヘブライ語。そして「レマ、サバクタニ」はアラム語と言われています。新約聖書はすべてギリシャ語で記されているのですが、きっと、イエス様が言われた言葉をそのまま残したいと、福音書を記した人は考えたのでしょう。このイエス様の十字架の上で叫ばれた言葉の意味は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」です。
レント(受難節)に入り、イエス様が十字架にお架かりになるまでの経緯とそこで起きたことから御言葉を受けてきました。そこで何度も確認したことは、イエス様は御自分が十字架にお架かりになることが神様の御心だと受け止め、その神様の御心に従って十字架への道を歩まれたということでした。だったら、どうしてイエス様は十字架の上で息を引き取る前、まるで神様を怨むかのように、この言葉を大声で叫ばれたのでしょうか。このイエス様の十字架での言葉は、新約聖書の中で最も難解な言葉と言われてきました。どうして神様の独り子が、このような言葉を叫んだのか。私もキリスト者になって50年、このイエス様の言葉を巡って、色々調べ、そして考え、思いを巡らしてきました。そして、少しずつ受け止め方が変わってきました。今日、そのすべてをお話しすることは出来ません。ただ、幾つかの点を確認し、イエス様の十字架を目の前に描き出し、イエス様のこの言葉をしっかり聞き取り、イエス様の十字架の出来事を我がこととしてしっかり受け止めたいと思います。
第一に、この言葉は先ほどお読みしました、詩編22編2節の言葉だということです。この言葉はイエス様のオリジナルというよりも、既に旧約の詩編にあった言葉だということです。そして、この詩編22編は、イエス様の十字架の出来事を預言している代表的なものです。今、一つ一つ挙げることはいたしませんけれど、明らかにイエス様の十字架の出来事を指し示している、イエス様の十字架の出来事と全く一致している言葉が幾つもあります。例えば8~9節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」これは、イエス様が十字架に架けられたときに、イエス様を侮辱し、罵る言葉を人々から浴びせられた状況と全く同じです。また、16節の「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。」は、イエス様が十字架の上で「渇く」と言われたことと一致します。さらに18~19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」これは、イエス様が十字架に架けられてあばら骨をさらしている姿ですし、何より、イエス様の十字架の下ではローマの兵士たちがイエス様の着物をくじ引きして分け合っていた出来事そのものです。これらの所を見れば、詩編22編がイエス様の十字架を預言していることは、明らかでしょう。そしてこの詩編は、最後の方になりますと、イエス様によってもたらされる救いによって、すべての人が主なる神様の御許に立ち帰っていくこと、主なる神様の御支配がこの世界全体に広がっていくこと、そしてその救いが代々伝えられていくことが歌われています。
つまり、イエス様はこの詩編22編の冒頭の言葉を口にすることによって、「わたしのこの十字架は、詩編22編によって預言されていた出来事。つまり、神様の救いの御業なのだ。」とお示しになった。そのように理解することが出来るわけです。この理解は、まずは押さえておかなければならない点です。
4.神の御子の死
しかし、この理解は、頭では分かりますけれど、なお十字架の深みに届いていないもどかしさを覚えます。つまり、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉の持つ激しさ、両手・両足を十字架に釘で打たれてこの言葉を叫んだこの時のイエス様の嘆きの深さ、痛みの激しさ、恐ろしいほどの絶望の深さには触れていないように思います。やはりイエス様はこの時、自分は父なる神様に捨てられたと受け止めたのだと思います。しかし、イエス様は、天地を造られたときから父なる神様と共におられ、永遠に一つであられる、神の独り子です。ですから、父なる神様に捨てられるというのは、私共の想像を絶する絶望の闇に落ちたのではないでしょうか。ここで起きていることは、完全な愛、永遠の愛に結ばれていた親と子が引き裂かれ、子が父に捨てられるという出来事です。それは、人間の親子の仲が引き裂かれるというのとは、桁が違うといいますか、事柄としては似ていますけれど、私共の想像を超えた苦しみ・痛み・嘆きの中にイエス様は置かれたということです。何故なら、イエス様と父なる神様は永遠に、完全に一つであられる神様だからです。イエス様は「父なる神様の御心に従う」が故に、父なる神様を愛するが故に、この苦しみと嘆きを味わっている。なんと理不尽なことでしょう。しかし、イエス様はその道を選ばれました。
5.神様の愛、イエス様の愛
どうしてイエス様はそのような、激しくもだえ、苦しみ、嘆き、痛みの極みに我が身を置くような道を歩まれたのでしょうか。そしてまた、父なる神様は、どうして愛する独り子を十字架の上に捨てるという道を御決断されたのでしょうか。そこが最も重大な所です。その答えは、ただ一つです。それは愛です。父なる神様は、罪人である私共の一切の罪を赦し、神様の子・僕として御自身との愛の交わりに入れるために、全く罪のない独り子であるイエス様を十字架にお架けになりました。そして、イエス様もまた、私共をそれほどまでに愛される父なる神様の御心を受け入れ、私共のために、私共に代わって、十字架にお架かりになりました。イエス様は全く罪がないのに、天地が造られたときから御自身と一つであられた父なる神様に捨てられる、罪人として裁かれ、滅びるということを受け入れられました。父なる神様も、子なるキリストも、それほどまでに私共を愛してくださいました。驚くべき愛です。これが神の愛です。このような愛を、私共は知りませんでした。私共の知っている愛は、親子の愛であれ、夫婦の愛であれ、師弟愛であれ、自分にとって好ましい、価値のある、良き者に注がれるものです。しかし、神様の愛はそうではありません。命を与え、必要のすべてを与えたのに、少しも感謝をすることもない者。神様によって与えられたすべてを、自分で手に入れたと思い違いをし、神様を敬うことも知らない者。神様の御心など考えることもなく、自分の思いや損得だけて生きている者。聖書はそれを罪人と言います。そのように御自分に反抗し、敵対する罪人を、それでも徹底的に愛し、これを赦し、これを救うために御自分が最も愛する独り子を十字架にお架けになりました。イエス様は、私共に代わって、十字架の上で父なる神様に捨てられました。そこには私共の想像を超えた痛みがありました。それがこの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉に現れたのでしょう。
イエス様は、この時も「わが神、わが神」と神様に呼びかけ、叫んでいます。自分をこんな目に遭わせる神などいらない。神も仏もあるものか。そんな心でイエス様は叫んだのではありません。父なる神様は、何があってもイエス様の父であるし、イエス様は何があっても神様の御子なのです。この関係は、天地が崩れても決して崩れることはありません。この時も、神様はイエス様の父であられ、イエス様は神様の御子であられました。というより、この十字架の上においてこそ、子を捨てる父なる神様の苦しみと、父に捨てられる子の苦しみは、コインの表裏のように、一つでした。
6.私共の死とイエス様の死
ここで、もう一つ心に刻んでおかなければならないことがあります。それは、イエス様の死は私共のために、私共に代わっての死であったということは、私共の死はこのイエス様の十字架の死と結ばれ、一つにされたということです。イエス様は、私共が味わう肉体の死を、私共に代わって味わわれたということです。つまり、私共の死は、このイエス様の死に飲み込まれ、一つにされたということです。私共は、自分の死も愛する者の死も、その人だけのものだと思っています。勿論、私共の死も愛する者の死も代わることは誰にも出来ません。しかし、イエス様は違います。神様の御子であるイエス様は、すべての人間の死を、御自分の十字架の死の中に飲み込まれたのです。そのことが分かるとき、イエス様のこの十字架上の叫びの新しい意味が見えてきます。それは、私共に代わって、私共と一つになって、イエス様は神様に向かって「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたということです。
人の死には色々なあり方があります。天寿を全うしたと言えるような、高齢になってからの穏やかな死もあれば、突然の死もあります。幼くして、或いは若くしての死もありますし、事故による死もあります。戦場における死もあれば、長い闘病生活の末の死もあります。人間の死は、人の数だけ様々です。そして、本人も家族も近しい者たちも、無念な思いを持って迎える死もあります。昨日、モスクワのコンサートホールでテロがあり、100人以上が亡くなったと報道されています。何ということかと思います。本人も家族も「なんで、なんで」と心から叫んでいることでしょう。ガザ地区でも、ウクライナでも、1月の能登半島地震でも、「なんで、なんで」という心の叫びが上げられ続けています。イエス様はこの叫びを聞き、その叫びを御自分の叫びとして叫ばれた。それが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びでした。それは、無念の死を遂げた人もまた、イエス様の死と一つとされているということを意味しています。そして、イエス様の十字架の死と一つにされたということは、イエス様の死は死では終わらなかった、三日目に復活されました。ですから、イエス様の十字架の死と一つにされた者は、この復活のイエス様とも一つにされたということなのです。それがイエス様によって救われたということです。使徒パウロが、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマの信徒への手紙6章4節)と告げている通りです。
7.神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた
イエス様が十字架の上で息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。聖書にはこの後、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」と記されていますが、これは「全地は暗くなり」(45節)と同じように、実際にこのようなことが起きたということではなく、イエス様の十字架によってもたらされる将来の救いの出来事を福音書は告げていると理解して良いでしょう。
ここで大切なのは「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ということです。これは何を意味しているかと言いますと、神様と人間との間の隔たり、罪という中垣が取り除かれたということ、神様との親しい交わりが始まったということを意味しています。この「神殿の垂れ幕」というのは、神殿の一番奥にあり、大祭司が年に一度しか入ることが出来ない、神様が臨在される至聖所と、祭司たちが入れる聖所とを隔てる垂れ幕です。神様が臨在される至聖所に罪人が入れば、神様の清さに撃たれて、人間は一瞬にして滅んでしまいます。人間の罪が、聖なる神様と人間との間を隔てていた。しかし、イエス様が十字架の上で死に、すべての人の罪の裁きを我が身に負われることによって、神様と人間との間の隔てが取り除かれ、愛の交わりが与えられた。そのことを意味しています。私共が神様に対して「父なる神様」と呼び、誰はばかることなく祈ることが出来るのは、イエス様の十字架によって与えられた赦しの故です。ただ、そのことをこの時に理解した者は一人もおりませんでした。
私共は、神様を信じて、神様を愛するようになったから、神様に愛されたのではありません。イエス様が十字架に架けられたとき、この神様の愛がここに現れたことを知る者はおりませんでした。使徒パウロはこの神様の愛を、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマの信徒への手紙5章8節)と告げています。
今朝、聖書の御言葉を通して、十字架にお架かりになったイエス様の御姿を見ることが出来たでしょうか。イエス様の十字架は、他の誰のためでもありません。私のためでした。私を愛し、私を赦し、私を救うためでした。この神様の愛によって、新しい自分、新しい命、新しい希望に生きる者にしていただいた私共です。まことにありがたいことです。このことを心から感謝し、共に祈り、神様を誉め讃えつつ、御国に向かってこの新しい一週も歩んで行きたいと思います。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を心から畏れ敬います。
あなた様は今朝、イエス様が十字架にお架かりになった場面の御言葉を通して、私共に語りかけてくださいました。イエス様の十字架が、私共のために、私共に代わって神様の裁きを受けられたものであることを、改めて心に刻むことが出来ました。感謝します。私共の命は、イエス様と一つにしていただいたのですから、どのようなことがあっても、この十字架に愛に応えて、あなた様と共なる歩みを為していくことが出来ますよう、守り、支えてください。そして、喜びのイースターを迎えることが出来ますように。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2024年3月24日]