富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(107)(最終回)

 「救いの歴史」と題して、旧約聖書の創世記第12章からのお話しをしてきました。このシリーズも今回で最終回となります。と申しますのは、私はこの八月末で富山鹿島町教会を辞任して他の教会に転任するからです。このシリーズを毎回お聞き下さった方々に心から感謝いたします。私の後任の牧師は来年の四月に着任の予定です。それまでの間は、このテレホンメッセージもお休みとなります。

 さて今、出エジプト記第20章にある、「十戒」についてのお話しをしているところです。前回、その第九の戒めについて語りました。今回は、最後の、第十の戒めについてです。聖書の言葉はこうなっています。
「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」
これは要するに、「他人のものを欲しがってはならない」ということです。他人のもの、他人に属するものを自分のものにしたいと思う心を、「貪欲」と言います。第十の戒めは、貪欲の思いを戒めているのです。それはある意味で、第八の戒め「盗んではならない」とつながるものだと言えます。「盗む」が、人のものを欲しがり、それを奪ってしまう行為を言っているのに対して、「欲してはならない」、以前の翻訳では「貪ってはならない」となっていましたが、これは、さらに内面の、心の動きを見つめています。実際に盗みを働くことは勿論、心の中で人のものを欲しがる、自分のものにしたいと思う、そういう思いが罪として戒められているのです。

 そのように申しますと、私たちは、「そういう貪欲の思いは誰にもあり、それを全く抱かなくなるなんて無理な話だ」と思います。確かにその通りです。しかしだからといって、貪欲の思いはあってもいいのだ、とは言えません。人間の社会における様々な罪、悲惨な出来事の多くは、貪欲の思いから生じてきているのです。私たちの心から、人のものをうらやましく思い、自分のものにしたいと思うことがなくなったら、この世界はどんなに平和になるだろうかと思います。

 貪欲はそれほどに私たち人間に基本的な、誰もが持っている罪です。それを「いけない」と言われて、すぐに捨てられるような簡単なものではありません。十戒は、特にその最後の戒めは、非現実的な教えを語っているのでしょうか。

 そこで、再び十戒という教えの根本的性格に立ち戻らなければなりません。これは、「救われるためにはこうしなさい」という教えではないのです。そうではなくて、神様が既にすばらしい救いの恵みを与えて下さった、ということを前提とした教えです。神様の救いにあずかった者は、神様に感謝して、このように生き始めるのだ、ということを教えているのです。私たちの歩みは、常に罪にまみれており、貪欲にとらえられています。しかし神様の恵みを知るならば、その私たちが、少しずつでも変えられていくのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年8月25日〜8月31日]

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