教会書庫 library

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ここには、富山鹿島町教会の先代の牧師である藤掛順一牧師のメッセージと堀岡満喜子教師の説教が保管されています。
※一部旧ホームページ内のページに遷移します。

テレホンメッセージ

「聖書の人間理解(6)」

 これまで、旧約聖書創世記第一章の天地創造の物語を通して、神様がこの世界を、秩序あるものとして造って下さったこと、つまり、人が安心して住み、生活していくことができるように、神様が全てお膳立てを整えて下さったこと、そしてその上で、神にかたどって、ということは神様の相手となることができる者として人間を造り、この世界を治め、管理する者として立てて下さった、ということをお話してきました。聖書はそのように、この世界が存在すること、そして私たち人間が生きていることに、神様の、私たちへの大きな恵み、愛のみ心を見つめているのです。それは言い換えれば、この世界が存在し、私たちが生きているということは、よいことだ、すばらしいことなのだ、ということです。そのことが、創世記第一章の31節にこのように表現されています。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。この世界は、そして私たち人間も、極めて良いものとして造られたのです。神様がこの世界を、そして私たちを、よいものとして肯定していて下さるのです。

 この創世記第一章が書かれた時代というのは、イスラエルの民、ユダヤ人たちが、バビロニアという大帝国によって国を滅ぼされ、その国に捕え移されてしまうという大きな苦しみの中にあった時代であると言われています。この世界が苦しみに満ちた所であり、生きていくことは苦痛であり、いっそ生まれてこなかった方が幸いだったのではないだろうか、という絶望が支配しているような、そんな状況の中で、この天地創造の物語が生まれたのです。それは、絶望の中にある民に、この世界はよいものなのだ、生きていることはよいことなのだ、神様がこの世界と私たちの人生とを、肯定しておられるのだ、という希望、生きる根拠を与える教えでした。聖書の人間理解の根本には、このような、人間に対する慰めと励ましがあるのです。神様が「よし」としておられることに支えられて、私たちも、この世界を、自分の人生を、たとえそれがどんなに苦しみに満ちているとしても、なお肯定的に受け止めていくことができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
「聖書の人間理解」→(7)


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