教会書庫 library
ここには、富山鹿島町教会の先代の牧師である藤掛順一牧師のメッセージと堀岡満喜子教師の説教が保管されています。
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テレホンメッセージ
「聖書の人間理解(8)」
「聖書の人間理解」についてのお話を続けます。
前回までは、旧約聖書、創世記の第1章を中心に、神様がこの世界とそして人間とをお造りになった、という天地創造の物語にこめられている、聖書の人間理解をお話ししてきました。今回からは、創世記の第2章4節以下に語られていることを見ていきたいと思います。と申しますのは、この2章4節以下には、第1章に語られていたのとは少し違うことが書いてあるからです。創世記には、いささか違う、二つの天地創造物語が記されているのです。この二つの話は、成立した時代が違います。そのことについては次回お話しするつもりですが、聖書をお読みになる時に、創世記2章4節からは、それまでとは違う新しい話が始まっている、ということを念頭に置かれるとよいと思います。
この2章4節以下の話の特徴は、人間のことに焦点があてられている、ということです。1章の方の話は、この世界が次第に秩序あるものとして造られていき、最後に人間が造られたという順序を語っていましたが、ここでは、この世界がどのように造られたかよりも、人間がどのようにして、また男と女として造られたのか、ということが語られていくのです。その根本となっている言葉は、7節の「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」ということです。人間は、土の塵から造られている、土の塵に過ぎない者である、そこに神様が命を吹き入れて下さることによって、初めて生きた者となるのだ、というのです。聖書における最初の人間をアダムと言うことはよく知られていますが、それは、土(アダマー)という言葉から来ている名です。アダマーから造られたアダム、それが人間の本質なのです。そこには、人間は土から取られ、土に帰っていく、という弱さ、虚しさが見つめられています。また、その土に過ぎない人間は、神様が命の息を吹き込んで下さることによって初めて生きることができる。人の命はこの神様の与えて下さるものであり、神様がそれを取り去られるなら、人は死んで土に帰っていくのだ、ということが見つめられているのです。1章の、「極めて良い」ものとしての、また地を従わせ、他の生き物たちを支配、管理する者としての光栄ある人間理解とはかなり違うことが、この2章4節以下には語られていくのです。
牧師 藤 掛 順 一
「聖書の人間理解」→(9)