富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(57)

 旧約聖書、創世記第11章にある「バベルの塔」の物語を読みながら、聖書の人間理解についてお話ししています。天に届くような高い塔を建てて、神と肩を並べる者になろうとする人間の傲慢の罪に対して、神様が、人間の言葉を乱し、お互いに言葉が通じないようにされた、というのがこの物語です。その結果、人々は一致して事を進めることができなくなり、この塔は未完成のまま終ったのです。またこのことによって人間は全地に、違う言葉を語る別の民族として散らされていった、と語られています。「バベル」という名は、「混乱(バラル)」という言葉から来ているのです。

 この話は、人間の罪とそれによって起こる結果とをよく示しています。罪とは、神のようになろうとすること、自分が主人、中心になり、自分の思いをどこまでも通そうとすることです。その結果、私たちは、人との交わりを失っていきます。人と話が通じなくなり、心を通わせることができなくなっていきます。同じ日本語を話していても、対話が成り立たない、一致できない、お互いに相手が外国人のように感じられてしまう、ということは多々あることです。そういう人間の現実が、この物語において見つめられ、描き出されているのです。

 そして大事なことは、そのような人間どうしの意志疎通の喪失、言葉が通じないという現実の背後には、私たちの、神様に対する罪があるということです。私たちが、神様の下で、神様に従う者として生きるのではなく、自分が主人になって、自分を神として生きようとするところに、このような人間関係の喪失が起こるのです。自分が神となろうとするということは、人を自分に従わせよう、自分の言うことを聞かせよう、ということです。お互いがそのように思っているところでは、本当の意味で言葉が通じることはありません。それぞれが自分の言いたいことを言うだけで、対話にはならないのです。私たちはそのような、対話の喪失の中を生きているのではないでしょうか。バベルの塔のもたらした結果は、まさに私たちの現実なのではないでしょうか。そしてその現実の背後には、私たちが、神様との対話、関係を失ってしまっている、ということがあるのではないでしょうか。聖書は、人間の現実をそのように見つめているのです。

牧師 藤 掛 順 一

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