富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(58)

 旧約聖書、創世記第11章にある「バベルの塔」の物語についてお話ししてきました。

 人間が、神と肩を並べる者になろうとし、自分が主人となって生きようとした、その罪の結果として、様々な言語が生まれ、人間どうし言葉が通じなくなり、人間関係が失われてしまった、というのがバベルの塔の物語の意味でした。それが私たちの現実であるわけですが、新約聖書には、これと対応する、反対の話があるのです。

 それは、使徒言行録の第2章にある話です。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

 この話は、イエス・キリストの十字架の死とよみがえりの後、弟子たちが集まっていたところに、聖霊、神様の霊が降り、それによって彼らは力を与えられて、イエス・キリストこそ救い主であるという教えを宣べ伝え始めたという、つまりこの世に教会が誕生した時のことです。その時、弟子たちは、聖霊に満たされて、ほかの国々の言葉、つまり自分たちがもともと話していたのではない、外国語で話しだしたのです。そこには、当時の世界の各地から巡礼のために集まっていたユダヤ人たちが大勢いましたが、彼らは、外国語を学んだことなどない無学な弟子たちが、自分たちの住んでいる地方の言葉を語り出したのを聞いてびっくりした、と語られています。

 このことは、バベルの塔の出来事によって起こった言語の違いによる意志疎通の壁が、神様の霊の働きによって乗り越えられたということを表しています。様々な言語を持つ人々が、もう一度一つに結び合わされる時代が始まったのです。そこで語られ、様々な言語を持つ人々に通じていったことは何かというと、イエス・キリストにおける神様の救いのみ業です。バベルの塔における罪によってばらばらになってしまった人間たちが、イエス・キリストにおける救いのみ業において、もう一度一つにされていく、そういう人間理解が、旧約聖書と新約聖書を貫いて流れているのです。

牧師 藤 掛 順 一

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