富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(61)

 旧約聖書出エジプト記第12章にある、「過越の祭」の意味についてお話ししています。神様がエジプト人の全ての初子を撃たれた時、イスラエル人の家を過ぎ越され、災いを与えずに通り過ぎた、この最後最大の災いよってついにイスラエルは、奴隷とされていたエジプトを出ることができた、その神様による大きな救いの恵みを記念するためにこの祭は定められました。

 この祭で最も大事な役割を果たすのは、「過越の小羊」です。この羊が殺され、その血が家の戸口に塗られるのです。最初の過越の出来事の時、その血が目印になって、み使いはイスラエル人の家を過ぎ越しました。つまり、「過越の小羊」が殺され、その血が流されたことによって、イスラエルの人々は奴隷の苦しみから解放され、救われたのです。過越の小羊は、イスラエルが神様の救いを受けるために犠牲となって死んだのです。そのことを記念して、毎年それが繰り返される、それは、イスラエルの人々が、自分たちがこうして自由な民として歩むことができていることの背後には、罪のない小羊の犠牲の死があったことを覚えていくということです。血が塗られるということにも意味があります。旧約聖書では、動物の命はその血に宿ると考えられているのです。その命である血による印がつけられるということは、過越の小羊の命が犠牲にされたということです。自分たちが今生きていることの背後には、犠牲とされた命がある、過越の祭はそのことを覚えていくための祭なのです。

 この、命の犠牲によって神様の恵みが与えられるという考え方は、新約聖書に受け継がれています。新約聖書において、「過越の小羊」はイエス・キリストを指しています。イエス・キリストは、十字架にかかって死なれました。その死は、罪の虜となり、奴隷となっている私たちを救い出し、神様の恵みに与かる者とするための犠牲の死であったと聖書は教えます。つまり私たちは、イエス・キリストの死という犠牲によって神様の救いを与えられている、私たちの歩みの背後には、イエス・キリストの命の犠牲がある、ということです。そのように、自分のために命を犠牲にして下さった方がいる、その方の恵みに応えて生きようというのがキリスト教の教えの根本です。そのルーツはこの過越の出来事とそれを覚える過越の祭にあると言うことができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年9月3日〜9月16日]

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