洗礼、聖餐に関する基本的見解 basic views on baptism and sacrament
全国連合長老会信仰職制委員会は、全国会議から依託された、洗礼、聖餐、の問題について、下記の見解を表明する。
1.前提
「全国連合長老会は日本基督教団にある、改革長老教会の信仰と長老制度とを重んずる諸教会によって形成された各地域連合長老会の共同体である」(全国連合長老会規約第1条)。
「改革教会の信仰と長老制度とを重んずる」
我々は、「教会を教会たらしめるものは何か」という問いに対して、監督制度、会衆制度とは違う見解を持っている。即ち、教会は使徒継承を担う監督、司教によって教会であるのではない(監督制との相違)。
また、キリストを信じた個々の信徒が集まって合議することで教会となるのでもない(会衆制との相違)。
我々の見解においては、教会は信仰者の共同体であり、全ての信仰者がその責任ある構成員である(会衆制との共通性)が、しかし教会を真に教会たらしめる権威は、全国長老会議、地域長老会議(プレスビテリ)、各個教会長老会議からなる長老会議に委ねられている。我々も使徒よりの教会的継承を重んじる(監督制との共通性)が、しかしその教会的継承は、監督によってではなく長老会議によって担われ、使徒継承としてではなく使徒的信仰を言い表す信条、信仰告白の継承においてなされる。
長老会議が、使徒的信仰の継承の下に、すなわち信条、信仰告白の規範性の下に、正規の手続きを踏んでなす決定に、キリストのみ心を見、それに服することによってキリストの主権が確立し、かくして教会がキリストの教会として立つことを我々は信じるのである。
長老制度は、「宣教長老(教える者)」、「治会長老(治める者)」、「執事(施す者)」の三つの職務によって担われる。宣教長老(教師)はみ言葉の宣教と聖礼典執行の職務を担い、治会長老は教会を牧する職務を担い、執事は教会における愛の奉仕が整えられるための職務を担う。この三職によって、主イエス・キリストの多面的なご支配が教会に行き届くのである。
各個教会長老会議の責任の下に行われる教会的行為(礼拝、説教、聖礼典の執行、伝道、奉仕等)は、地域長老会議(プレスビテリ)によってその権威を支えられている。地域長老会議(プレスビテリ)は教師を立て、派遣し、各個教会長老会議の記録を審査すること等を通して、各個教会長老会議を支え、指導し、その健全な歩みのために仕える。全国長老会議は、信仰告白の制定、憲法・規則の制定等を通して、全体教会の信仰的、制度的枠組みを整えることによって、地域長老会議の、また各個教会長老会議の歩みのために仕える。我々全国連合長老会はこのような長老会議による全体教会のあり方を理想として掲げ、日本基督教団の教憲・教規の下で、可能な限りその実現を目指そうとしている。全国連合長老会において、洗礼、聖餐、職制等の問題を考えていくための土台、前提は、この長老制度にある。このことを確認することから、我々の作業は始まるのである。
2.洗礼について
(1)教会の行為としての洗礼
洗礼は、キリストの設定による教会の行為であって、教会の信仰告白を規範として行われる。洗礼を受ける者は、教会の信仰告白に対して主体的に同意を表す。
教会はそれを試問し承認して、洗礼を授け、主イエス・キリストの体なる教会に枝として結び合わせ、新しい契約の交わりの中に加える。具体的には、地上の目に見える一つの教会の教会員とする。
(2)聖霊の働きによる洗礼
教会は、聖霊の働きによって生きる群れである。人をその教会に加える洗礼も、聖霊の働きを信じ、求めることによってのみ真実な洗礼となる。我々は、洗礼が、按手を受けた教師により、父と子と聖霊のみ名によって執行されるところに、聖霊が働くことを信ずる。我々は通例滴礼によって洗礼を行う。水によってなされる洗礼において、聖霊が働きたもうことを信ずるゆえに、我々は水の洗礼と聖霊の洗礼を分けることをしない。三一の神の名によって、聖霊の働きの下に執行された洗礼は、生涯有効であるから、転出、転入に際して再洗礼が行われてはならない。
(3)洗礼と信仰告白
洗礼志願者には、信仰の告白が求められる。信仰の告白は、個人的な信仰の言い表しと混同されてはならない。教会が継承してきた信仰告白を自らの信仰として告白するのである。このことが正しく行われるために、各個教会長老会議は洗礼志願者の指導と試問を行う。
(4)洗礼執行の主体と権威
志願者を試問し、授洗を決定し、それを執行する主体は各個教会長老会議である。
各個教会長老会議は、地域長老会議(プレスビテリ)の担う教会的権威に支えられて、各個教会における洗礼執行の主体としての責任を負う。
地域長老会議(プレスビテリ)は、教師を立て、派遣することを通して、また各個教会長老会議の記録を審査し、その歩みを見守り、指導することを通して、各個教会における洗礼執行を支えるのである。
(5)幼児洗礼について
幼児洗礼は、信仰者の保護の下にある幼児が、神の恵みの契約によって教会に招かれているという信仰に基づいて行われる。
各個教会長老会議は、親あるいは保護者の信仰による願いにより、親あるいは保護者を試問し、幼児洗礼の執行を決定する。
教会と親あるいは保護者は、幼児を、聖霊とみ言葉の働きの中で養育する責任を負い、幼児が信仰告白に導かれ、陪餐会員として教会に連なることができるように祈る。
3.聖餐について
聖餐は、キリストの設定による教会のサクラメント(聖礼典)である。聖餐は、洗礼において主イエス・キリストの体なる教会の一員とされた我々が、主イエス・キリストの十字架の死による罪のゆるしの恵みを全存在をもって味わい、それによて信仰を養われ、強められるために、主ご自身が聖霊の働きによって、キリストのからだを食べさせ、血潮を飲ませて下さる恵みの食事である。聖餐にあずかることによって我々は、主の再臨による救いの完成への希望を新たにされる。我々はこの認識に立ち、また現在日本基督教団において起こっている聖餐の混乱を念頭に置きつつ、下記のことを確認する。
(1)教会の行為としての聖餐
聖餐は教会の行為であり、教会の行為としてのみ意味のあるものである。信仰者の共同体である教会の行為である以上、それは信仰を前提としている。改革教会は、信仰告白に生きる者の群れとして主の食卓を厳格に重んじてきた。聖餐は、洗礼を受け、教会に加えられた信仰者の、信仰による、主イエス・キリストとの生きた交わりの食事である。
(2)聖霊の働きによる聖餐
教会は、聖霊の働きによって生きる群れである。我々の信仰も、聖霊によって与えられる。その同じ聖霊が、説教において我々に語りかけ、信仰告白へと導き、洗礼において我々をキリストの体である教会の一員として新しく生まれさせ、聖餐において我々を、よみがえって天に昇られた主イエス・キリストと結びつけ、その恵みにあずからせて下さるのである。聖霊によって生きる教会の行為としての聖餐は、按手を受けた教師によって、この聖霊の働きを信じ、求めつつ執行されることによってのみ真実な聖餐となる。聖霊の働きなしには、それは単なる飲み食いである。
(3)聖餐と説教
サクラメント(聖礼典)の本質は神のみ言葉である。宗教改革者以来、我々の教会は、「見えるみ言葉」である聖餐が、「語られるみ言葉」としての説教と共に執行されなければならないことを強調してきた。説教と聖餐は共に、我々を主イエス・キリストの体なる教会に連なる者として生かし、我々に、キリストとの全人格的な交わりを与える。聖餐は、説教において語られる福音の、目に見える印として、礼拝の中であずかることによって、サクラメント(聖礼典)となる。
各個教会における礼拝の責任を負う各個教会長老会議は、その教会において、み言葉の説教が正しく語られ、聖餐がそれと結びついて執行されるための責任を負う。
(4)聖餐執行の主体と権威
聖餐を執行する主体は各個教会長老会議である。各個教会長老会議は、地域長老会議(プレスビテリ)の担う教会的権威に支えられて、各個教会における聖餐執行の主体としての責任を負う。地域長老会議(プレスビテリ)は、教師を立て、派遣することを通して、また各個教会長老会議の記録を審査し、その歩みを見守り、指導することを通して、各個教会における聖餐執行を支えるのである。
(5)聖餐と戒規
改革教会は、陪餐共同体として自らを維持し、成長させるために、聖餐にふさわしくあずからせるための訓練を重んじてきた。それが、戒規である。各個教会長老会議の重要な使命の一つは、教会員がふさわしい信仰をもって聖餐にあずかるように指導、訓練することにある。
(6)未受洗者の陪餐について
聖餐は、洗礼において与えられた、主イエス・キリストの十字架の死とよみがえりによる罪のゆるしと新生とを常に想起するために与えられているものである。それゆえに、洗礼を受け、教会員となった者にのみ陪餐は許される。未受洗者にも陪餐を許すことは、聖餐の、洗礼によって教会に連なる信仰者の主イエス・キリストとの交わりの食事という本来の意味を失わせる。また、聖餐がみ言葉と信仰から離れて独り歩きし、再び魔術化、迷信化し、或いは世俗化する道を開くことになる。未受洗者に陪餐を認めないことは、区別ではあるが、排除、差別ではない。教会は未受洗者が信仰を告白し、洗礼を受けて陪餐共同体である教会に加えられることを常に祈り求め、待ち望んでいるのである。
(7)未陪餐会員の陪餐について
未陪餐会員(幼児洗礼のみを受け、信仰告白をしていない者)は、各個教会長老会議による試問を受け、信仰告白式を経ることによって初めて聖餐にあずかることができる。我々は、幼児洗礼を、教会への入会のサクラメント(聖礼典)として認めるのであるから、未陪餐会員の陪餐を絶対的に否定するものではない。ただ、自覚的な信仰告白に生きる者の群れとしての教会形成を重んじてきた改革教会の教会理解においては、未陪餐会員の陪餐よりも、信仰告白へと導くことをこそ考えるべきである。