教会書庫 library

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ここには、富山鹿島町教会の先代の牧師である藤掛順一牧師のメッセージと堀岡満喜子教師の説教が保管されています。
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解(20)」

 旧約聖書創世記の第2章を読みながら、「聖書の人間理解」についてのお話をしています。特にその18節以下には、人間が男と女として造られていること、そして男女が結婚して夫婦となることの意味、聖書の結婚理解が語られていました。その第2章の最後の25節にはこのように書かれています。
「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」
最初に造られた人間、エデンの園、楽園に住んでいたアダムとエバは、裸だったのです。しかし「恥かしがりはしなかった」。つまり、裸であることが何の問題でもなかったのです。このことは何を意味しているのでしょうか。

 裸であるというのは、何もつつみ隠すことがない、ありのままの姿をさらしている、ということです。神様に造られた人間の本来の姿においては、そのように、何もつつみ隠すことがなかったのです。すべては開けっ広げ、オープンです。そしてそのことが何の問題でもなかったのです。

 彼らが何もつつみ隠すことなく自分のすべてをさらしていたのは、人間どうし、この場合には、男と女、夫と妻の間においてそうだった、というだけではありません。彼らは、彼らを造って下さった主なる神様に対しても、何もつつみ隠すことのない、オープンな関係を持っていたのです。神様に対しても、また人間どうしの間でも、何も隠しだてをすることがない、開かれた、完全な関係があった。それが、最初に造られた人間の本来の姿である。そのことを、この「裸だった」ということは言い表しているのです。

 ところが今は、私たちは裸ではありません。服を着て、隠すべき所を隠して生きています。そういうことをしているのは、人間だけです。動物たちは皆、生まれたままの、ありのままの姿で生きています。どうして人間だけがそのようになったのか、またそのことは何を意味するのか、ということについては、次の創世記第3章を読んでいかなければなりません。そこには、人間が裸であることをやめていった経緯が語られています。次回から、その第3章に入っていきます。第2章と共にこの第3章も読んでいかないと、聖書の人間理解を正しくつかんだことにはならないのです。

牧師 藤 掛 順 一
「聖書の人間理解」→(21)


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