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出エジプト記6章28節〜7章6節

花の日礼拝「一人じゃないよ」
出エジプト記6章28節〜7章6節  小堀康彦牧師

 今日は、花の日の礼拝です。子ども達の健やかな成長を願って守られる礼拝です。今日は、いつもは別々に守っているおとなの人と教会学校の子ども達が、いっしょに礼拝を守っています。ですから、今、ここには1才の子から80才以上の人までいます。この人たちみんなが、富山鹿島町教会です。もっと正確に言うと、今日の午後に、ここにあるたくさんのお花を持って、今は教会に来られていない病院や施設に入っている方々の所を訪ねますけれど、その人達もみんな含めて、富山鹿島町教会です。神の家族です。今日は、おとなも子どもも老人も、みんな健やかに神さまの子どもとして歩んでいけるように願って礼拝を守っているのです。

 さて皆さん、神さまの子どもとして健やかに歩んでいくのに、大切なことは何だと思いますか。それは、神さまに対して、「ハイッ!!」と元気よく、きっぱり、すっきり、はっきりとご返事をすることです。「ハァ〜イ」でもないし、「ハァィ」でもありません。「ハイッ!!」です。でも、これは返事だけではダメです。皆さんの中には、「返事だけはいいのにね。」なんて言われている人はいませんか。実は、私がそうでした。よくお母さんに、「お前はいつも、返事だけはいいのにね。その後が良くない。返事だけで、ちっとも動かない。その重いお尻はどうにかならないのかね。」なんて言われていました。「ちょっと、買い物に行ってちょうだい。」とか、「ストーブに石油を入れて。」とか言われると、「ハイッ!!」と返事はいいのだけれど、ちっともテレビの前から動かない。いつまでたっても動かない。それで、「康彦、いいかげんにしなさい!」って大声でどなられて、それからあわてて、「ハイッ」と返事をして動き出す。こういう「ハイッ!!」ではいけません。「ハイッ!!」と返事をしたら、ちゃんと動き出さなければいけません。神さまに愛されている、神様の子どもとして、神の家族として、富山鹿島町教会の私たちは、神さまの言葉を聞いたなら、「ハイッ!!」と元気に、きっぱり、はっきり返事をして、すぐに動き出します。いろいろ理由をつけて、ぐずぐず動かないようなことではいけません。神さまに、「鹿島町教会は、返事はいいんだけれどね」なんて言われてはいけません。良いですか、神さまに言われたら、「ハイッ!!」です。そして、すぐ動きます。

 今日与えられている聖書の言葉の中には、神さまのご用に用いられた二人の人が出てきます。モーセとアロンです。モーセさんの名前は聞いたことがあるでしょう。エジプトの奴隷だった神の民イスラエルを導いて、エジプトを脱出させた人です。このエジプトから脱出していく旅の途中、シナイ山という所で十戒を与えられました。旧約聖書の中には、たくさんの人が出てきますけれど、その中でも最も重要な働きをした人と言って良いと思います。旧約聖書の一番始めにある5つの書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、モーセ五書と呼ばれて、モーセさんが書いたと信じられていた程、モーセさんは大変な働きをした人でした。
 ところが、このモーセさん。そんなに簡単に「ハイッ!!」と言った訳ではありませんでした。エジプトの奴隷であったイスラエルの人々の助けを求める叫び声が神さまに届いて、神さまはイスラエルの人々を助けることを決めました。そして、その為にモーセさんを選んだのですけれど、モーセさんは「ハイッ。私がイスラエルの民を導き出します。」なんて答えませんでした。出エジプト記の3章、4章に記されているのですけれど、モーセさんは、色々理由をつけて、神さまの言いつけから逃げようとするのです。
 しかも、一回だけじゃありません。5回も断って、逃げようとするのです。最初は、(3章11節)「自分は特別な人じゃないし、どうして自分がそんなことをしないといけないの。そんなこと、自分には出来ないですよ。」そう言うのです。それに対して神さまは、「私が必ずあなたと共にいる。」と言われます。私がいるから大丈夫だと言われるのです。ところがモーセさんは引き下がりません。次に、(3章13節)「自分が神さまに遣わされましたと言って、イスラエルの人々の所に行っても、きっと信用しないでしょう。お前を遣わした神さまの名前は何かと聞かれます。」と言います。二回目です。神さまは、モーセに、「私はある。私はあるという者だ。」と言って、ヤーウェという名前を知らせました。それでもモーセさんは「ハイッ」と言いません。3回目、(4章1節)「それでも人々が、お前なんかに神さまが現れるはずがないと言って信用しないでしょう。」モーセには自信がないし、自分に神さまが現われたなんて、みんながきっと信じてくれない。そう思っていますから、何とかイスラエルの人々を導いていくリーダーになるのから逃れようとします。そこで、神さまは、杖を地面に投げるとヘビになり、そのヘビのシッポをつかまえると杖に戻るという不思議を、「しるし」として与えました。これをイスラエルの人々の前でやってみせれば信用してくれる。そういう訳です。それでもモーセは納得しません。4回目、(4章10節)モーセは「私は口が上手ではありません。うまく、人々に話すことが出来ません。だから、自分は適任ではないと思います。」と言うのです。神さまは、もう、かなり怒ってきました。神さまは「誰が人間に口を与えたのか。誰が口を利けるようにしているのか。神さまである私ではないか。だったら、何の心配をする必要があるか。さっさと行け。私が何を語るかを教える。」そう言いました。それでもモーセさんは「ハイ」と言いません。5回目、ついに本音が出てしまいました。「ああ、主よ。どうぞ、誰か他の人を見つけてお遣わしください。」ついにモーセは、「私はいやです」と言ってしまったのです。これを聞いた神さまは、怒りました。今まで、モーセが、何が足りない、何が出来ないと言えば、それに対して、いちいち対応して下さっていた神さまが、この最後の言葉に怒ってしまったのです。神さまが、モーセに対して怒った末に言われたのが、「あなたには、アロンという兄弟がいるではないか。アロンは話すことが上手だ。お前はアロンといっしょに行け。」ということだったのです。

 私は、この所が大好きなのです。なかなか、「ハイッ」と言わないモーセさんが、自分と同じだとも思います。私も20才で召命を受けて、27才で神学校に行くまで、何だかんだ理由をつけては先延ばしにしていました。でも、最後はモーセは神様に怒られたでしょう。「ハーイ」と返事だけで動かないと最後には、お母さんも怒りますよね。「康彦、いいかげんにしなさい。」神さまも同じです。私も神さまに叱られて、それで神学校に行くことになりました。でもね、神さまは最後に、アロンという兄弟をモーセといっしょに遣わすと言われました。神さまは最初に、「私があなたと共にいる」と言われたのですけれど、最後にはアロンもいると言われたのです。モーセさんに、「一人じゃないよ」って言われたのです。神さまは、私共といつも共にいて下さいます。その「しるし」として、神さまは私共に具体的な、共に神さまのご用に仕える人を備えて下さるのです。アロンを備えて下さるのです。
 私は洗礼を受けてから教会学校の先生をずっとしているのですけれど、ある時、もう教会に行きたくないなと思ったことがありました。でも、教会学校の子供達が待っているから、教会に行かなければなりませんでした。教会学校の生徒達が、私の信仰の生活を守ってくれたのです。勿論、教会学校の子供達は、私が小堀康彦の信仰を守ってやった、だから今牧師をしていられるのだ。そんなことを考えてはいません。私達は、自分がモーセでアロンが与えらるということばかり考えるかもしれませんけれど、実は、私が気付かない内にある人のアロンになっているということだってあるのです。私共一人一人が、アロンであり、モーセなのです。

 モーセさんは話すのが苦手でした。そのモーセさんの為に、神さまは話すことが上手なアロンさんを備えて下さいました。私たち一人一人は、一人では出来ない所がたくさんあります。しかし、それで良いのです。出来ない所を助け合うようにと、神さまはこのような神の家族としての教会を与えて下さったのです。そして、私たち一人一人に、主のご用に励みなさいと言って下さっています。私たち一人一人にアロンが与えられているのですから、もうごちょごちょ言わず、「ハイッ!!」と言って、主のご用に用いられていきたいと思うのです。モーセさんは、これから40年にも及ぶ、長く辛い出エジプトの旅をすることになりました。でも、モーセさんもうごちょごちょ言い訳して、神さまのご用から逃げようとはしませんでした。
 幼子は幼子として、主をほめたたえること。年老いた者は、年老いた者として祈りをささげること。何か、目に見えることをすることばかりが、主のご用に励むことではありません。生かされていることを、心から喜んで、主をほめたたえつつ祈ることにまさる、主にお仕えする業はありません。主をほめたたえつつ、この一週も、共に歩んでまいりましょう。

  [2004年6月13日]


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