日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教|過去の説教|「顔を上げなさい」[2004-10-10]


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創世記 第4章1~16節

ローマの信徒への手紙 第6章10~14節


「顔を上げなさい」
創世記第4章1~16節 ローマの信徒への手紙第6章10~14節
 小堀康彦牧師






 共々に創世記を読み進めています。この聖書には、私共の姿が描かれています。私共が気付かない、しかし動かすことの出来ない私共の姿。私共の罪の現実です。アダムとエバはカインとアベルを生みます。人類最初の家族の誕生です。この人類最初の家族において、兄カインが弟アベルを殺すという、大変な事件が起きてしまったと聖書は記すのです。私共は家族というものは仲が良く、平和に過ごすのが当たり前だと思っていますけれど、聖書はそうではないと告げているのです。ここには、私共の現実と私共の課題が示されていると言って良いと思います。私共の現実。それはたとえ家族であっても、憎しみ、争いというものと無縁とは言えないという罪の現実です。私共の罪というものは、家族という最も親しい、最も大切な交わりにおいて、具体的な形となって現れるということでありましょう。そして、その現実は、私共に課題を与えることにもなります。その課題とは、その罪を乗り超えて、御心にかなう家族、愛の交わりとしての家族を形成していくという課題であります。

 男と女が結婚すれば、さらに子供が与えられれば、そこに家族は誕生します。人は皆、家族を持っている。しかし、それは家族であるというだけであって、それではまだカインとアベルの罪を乗り超えたものとは言えないのです。自然発生的に生まれた家族は、志と信仰によって、神さまの導きの中で、家族になっていかなければならないのであります。夫婦も同じです。私共は夫婦「である」という所から、夫婦に「なる」という営みを続けていかなければならないのです。


 さて、この事件の発端は、カインとアベルが神様に献げたものを、神様がアベルのものにしか目を留められなかったということでした。兄のカインは農耕者であり、自分が育てた作物の実りを献げました。弟のアベルは牧畜者であり、羊の初子を献げました。何故か神様はこの時、弟アベルの献げたものにしか目を留められなかったのです。兄カインの献げ物には目を留められなかったのです。このことについての古典的な理解は、アベルは信仰をもって献げたけれども、カインはただ形だけ献げたというものです。更には、アベルは羊の中で最も良い肥えた初子を献げたけれども、カインは出しおしみをして良くないものを献げたというのです。だから神様はアベルの献げ物には目を留めたが、カインの献げ物には目を留めなかったというのです。これは、合理的説明にはなっていますけれど、ここで聖書が本当に伝えたいことなのかどうか疑問です。というのは、ここで聖書はどうして神様がアベルの献げ物にだけ目を留めたのかという理由については、全く触れていないからです。このような理解・説明が生まれた背後には、神様は公平でなければならない。平等でなければならない。そういう思いがあるのでしょう。神様は公平で平等な方であるはずなのだから、アベルの献げ物にだけ目を留めるとすれば、それなりの理由があるはずだ。そういう思いの中で考え出された合理的な説明がこれなのではないのかと思うのです。しかし、その様な合理的な説明がこのカインとアベルの話が私共に告げようとしていることではないのではないかと、私には思えるのです。

 そもそも、神様が献げ物に目を留めるとはどういうことなのでしょうか。ある注解者は、神様が献げ物に目を留めるということは、この創世記第4章が語られた古い時代においては、具体的な神様の祝福、この場合ですとアベルならば羊がどんどん増える、カインならば豊作が続くという現実を意味していたと言います。私もそうだろうと思います。つまり、カインとアベルは共に神様に献げ物をしたけれど、カインは豊作にならず凶作続き、一方アベルの羊はどんどん増えたということなのだと思うのです。簡単に言えば、アベルは金持ちになって、カインは貧乏になったということです。どうして金持ちと貧乏人がいるのか。そんなことに聖書は答えないのです。しかし、それが私共の生きている現実でしょう。神様は平等で公平な方だと考える人がいますが、神様は私共が考えるような形で平等であったり公平であったりする方ではないのです。ある意味で、私共は生まれつき、全く不平等な現実の中に生きているのです。健康な人もいれば病弱な人がいます。足の速い人もいれば遅い人もいます。金持ちの家に生まれた人もいれば、貧乏な家に生まれた人もいる。同じ家に生まれたって、兄弟で全く違うのです。それが私共の生きている現実でしょう。

 この時、「カインは激しく怒って顔を伏せた。」と5節に記されています。「顔を伏せた。」神様の方に顔を向けられない。なんで、こんな目に自分は遭うのか。弟の方はどんどん金持ちになる。自分は貧乏になる。兄のカインとすれば腹が立つ。それは当然の心の動きではないでしょうか。特にカインが悪人だったという訳ではないでしょう。皆さんの家で同じようなことが起きたらどうでしょうか。出来の悪い兄、出来の良い弟、弟は社会的にも成功し、兄はうらぶれる。これは大変ですよ。カインの心に「ねたみ心」が生まれた。この「ねたみ心」というものは、大変やっかいなものです。しかし、生まれつきこれと無縁だという人もいないでしょう。私は自分の顔というものに幼い頃から劣等感を持っていまして、かっこいい人を見ると、うらやましくてしょうがなかった。小学校の低学年で既にそのような思いを持ったことを覚えています。今は、そういうことが少しも気にならなくなったのですけれど、20代の前半までは、かなり気になりました。

 問題は、カインが「顔を伏せた」ということなのです。神様は顔を伏せたカインに向かってこう言われます。6節「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」神様は「顔を上げよ。わたしを見よ。わたしに向かい合いなさい。」そう告げられているのです。これが大事なのです。不公平だ、不平等だ、理不尽だ。そう言いたくなるような現実がある。そういう中で、神様は私共に向かって、「顔を上げよ」と言われるのです。言いたいことがあれば、私に向かってちゃんと言いなさい、祈りの中で訴え続けなさい、そう告げられるのです。この神様の前から離れないで、理不尽な現実の中で神様に訴え続けていく。それこそ神様が私共に求めていることなのであり、これが聖書の信仰なのです。顔を伏せて、神様を見ず、人をうらやんで、ねたみ心に支配されてはならないと告げているのです。


 詩編の中には嘆きの歌と呼ばれるものがたくさんあります。詩人達は嘆きの中で、神様を呼ぶのです。決して、神様の前から離れようとはしないのです。嘆きを神さまに訴え続け、祈り続けるのです。代表的な嘆きの詩篇の一つ、詩篇13編を見てみましょう。詩編13篇2~3節「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。」詩人はここで「いつまで」と4回も繰り返しています。詩人は困窮の中で祈りました。しかし、いつまでたっても、少しも状況は良くならない。しかし、それにも関わらず詩人は神様の前から離れないのです。祈り続けるのです。そしてついに6節で「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び踊り、主に向かって歌います、『主はわたしに報いてくださった』」と主をほめたたえるに至るのです。詩人の置かれている状況が変わったのかどうかは判りません。しかし、詩人は主の救いと慈しみをほめたたえるようになったのです。ヨブ記が告げているのも同じことです。ヨブをおそう突然の不幸。ヨブはこの理不尽な神様のなさりように怒り、神様を訴えます。しかし、ヨブは決して神様の前を離れないのです。神様に向かって、顔を上げ続けるのです。神さまに訴え続けるのです。そして、遂にヨブは様は神さまであることに納得させられるのであります。どんなことがあっても、決して神さまの御前を離れない。それが聖書の信仰なのです。

 カインは神様に対して顔を伏せ、ついに弟アベルを殺してしまいました。痛ましい事件です。カインが顔を上げていれば、神様に向かって訴え続けていたのなら、決してこうはならなかったと思うのです。

 ある障害を持ったお子さんのお母さんから、こういう言葉を聞いたことがあります。「私はこの子を自分が守ってきたし、守っていかなければならないと思ってきた。しかし、振り返ってみると、私の方がこの子に守られてきたのだと思う。」きっとこの子が生まれた時は皆で喜んだに違いない。しかし、障害があるということが判ってから、「どうして自分の子が」そいう思いが、この方の心を占めていたに違いないと思います。しかし、変わってくる。長いこの子との歩みの末に、変えられていったのです。この言葉を聞いた時、私は、この方はすでに神様の恵みの中を歩み始めていると思いました。理不尽と思える現実。しかしそれが神様の御前に立ち続ける中で、意味が変わってくるのです。理不尽と思える現実の中で、私の思いを超えた神様のあわれみの御手が働いていることに気付いていくのであります。ここに、新しく生き直していく私共の道があります。


 カインは神様に向かって顔を伏せ、ついに弟アベルを殺してしまいました。神様はその前に、6節後半「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と告げました。しかしカインは、罪を支配するのではなく、罪に支配されてしまったのです。私共は皆、カインの子孫なのです。自らの罪を支配するのではなく、罪に支配されてしまっていた私共であります。しかし、主イエス・キリストに結ばれることによって、罪の支配からキリストの支配のもとに生きる者とされたのであります。聖書は告げます。ローマの信徒への手紙6章11節「あなた方も自分は罪に死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」14節「罪は、最早、あなた方を支配することはない。」私共は洗礼を受け、キリストに結ばれました。ですから、キリストの支配の中に生きる者とされた私共は、最早、罪の支配の中に生きる者ではなくなったのです。最早、神様に向かって顔を伏せることはありません。嘆きの中で、なおキリストに結ばれた者として、神様を呼び続ける者とされているのです。

 私共は、それぞれの家庭において、人には言えない課題・問題をかかえているものです。何の問題もない家などないのです。そして、その問題は神様のもとに持っていくしかないのでしょう。神さまによってしか解決されないからです。神様は全てを知っておられます。そして、必ず道を開いて下さるのです。私共は自らの中にあるカインの心と戦い、神様に向かって顔を上げ続けるのです。顔を伏せてはいけません。祈りの中でしか、私共は自らの愛の交わりを造り変えていくことは出来ないからです。祈りの中でしか、自分自身が変えられていくこともないからです。神様に向かって顔を伏せた時、祈ることを止めた時、私共は罪の支配に堕ちてしまうからです。

 私共は、今日、心を一つにしてただ一つのことを祈りたいと思います。私共のそれぞれの家族が、罪の現れる場から、神様のみ業が現れる場、神さまの栄光が現れる場へと造り変えられていくように。






[2004年10月10日礼拝]


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