日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教|過去の説教||2005年元旦礼拝「神の武具を身に着けて」[2005-01-01]




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サムエル記上17章41~54節

エフェソの信徒への手 6章10~20節


2005年元旦礼拝「神の武具を身に着けて」
申命記34章1~8節 エフェソの信徒への手紙6章10~20節
 小堀康彦牧師






 今朝は元旦です。新しい年、2005年が始まりました。私共はこの新しい年が始まるに当たりまして、何よりも御言葉に聞き、共に祈りを合わせる礼拝をささげる為にここに集められてまいりました。新しいこの一年を始めるに当たり、今、私共が心から願っていることは何でしょうか。何よりもこの一年間、真実な信仰の歩みをなしていきたいということでありましょう。神の子として、神の僕としての歩みを、神様の御前に真実になしていきたいということでありましょう。私共は、健康上のことや、家族のこと、仕事のこと、様々な課題をかかえています。その課題が良い方に向かうようにという願いは、皆、それぞれ持っていることでしょう。しかし、その課題に対しての願い以上に、私共の心を占めているのは、信仰の歩みが守られるようにということだと思うのであります。たとえこの一年の間に、健康上のことで問題が起きたとしても、それでもなお病の床の中にあっても、信仰を守られたい。それが私共の第一の願いなのではないかと思うのです。だから私共は、元旦の朝、年賀状を見ることも後まわしにして、教会へと集ってきたのでしょう。元旦の朝、このように礼拝を守ることの中に、すでに私共の願いは表れていると思うのです。


 私共の信仰の歩みは、戦いを抜きにあり得ません。この一年の歩みにおいても様々な戦いがあるでしょう。私共の内側から起きてくる罪の思い、外側からやってくる罪への誘惑。これらと戦い、勝利することなくして、信仰の歩みを全うすることは出来ません。このことは、代々の聖徒達が皆、知っていたことです。では、どうやって私共はその戦いに勝つことが出来るのか。

 聖書は告げます。10節「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」戦いに勝つには強くならなければならないのです。しかし、この強さは、自分の力や熱心、努力によって手に入れることが出来る強さではありません。「主に依り頼み」、神の「偉大な力によって」強くされなければならないのです。信仰の戦いは、自分の力だけで勝つことは出来ないのです。私共はまず、自分の弱さを知らなければなりません。逆に言えば、私共が戦う相手の力の大きさを良く知らなければならないということでもあります。ちゃんと敵を知らなければならないのです。信仰の戦いの本当の敵は、悪魔・サタンであるということです。悪魔などと言うと、神話の話ではないかと思う人が多いかもしれません。しかし、私共は新聞を開くたびに、悪魔の業としか思えないような出来事が、次々に起きている現実を知らされるのではないでしょうか。戦争が良いことだと思っている人はいません。しかし、人類の歴史が始まって以来、戦争がなかった時など、一度もないのです。今でも、イラクで、アフガニスタンで、戦いが続いています。これ程人間の愚かさを示していることは、他にないでしょう。しかし、これは単に人間の愚かさを示しているだけではなくて、悪魔的な力がこの世界を覆っていることを示しているのです。私共は、「御心が天になるごとく、地にもなさせ給え」と祈る。しかし、それを阻止する力が、いつも働いているのです。

 私共の心を、神様から離れさせようとする力が、いつも私共に働いているのです。それはきびしく、私共の弱い所を突いてきます。これに対抗する為にはどうすれば良いのか。聖書は今日、私共に「神の武具を身に着けなさい。」と教えています。神の武具を身に着けなければ、生身の私共ではとても勝てないと言うのです。このエフェソの信徒への手紙を書いたパウロは、20節で「わたしはこの福音の使者として鎖につながれています」と語っています。彼の身の上に苦しみと困難がおおいかぶさっています。彼は、この状況の中で、自らの弱さというものを知らされていたのではないでしょうか。自分の力で信仰を保つことが出来ない、そんなあやうささえも感じていたのかもしれません。だから、彼は、自分の為にも祈って欲しいと願っているのでしょう。自分自身、神の武具を身に着けなければやられてしまう。そのことを良く知っていたのだと思います。

 では「神の武具」とは何なのか。14節以下、「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」と記されています。多分、パウロは自分を捕らえている世界最強のローマ兵の姿を毎日見ておりますので、そのイメージでこのように記したのだろうと思います。今、この一つ一つについて思いをめぐらすいとまはありませんけれど、注目すべきは、ここで挙げられている武具には、攻撃用のものがないということです。弓、矢、長い槍、そういうものは挙げられていないのです。ここに剣とありますけれど、これも短い剣を指しています。つまり、神の武具はサタンを攻撃する為のものではなくて、その攻撃から身を守る為のものだということなのであります。

 聖書は真理・正義・平和の福音・信仰・救い、それらで身をおおえと言うのです。私共は、日々の歩みの中で、キリストの真理を証し、正義に生き、平和の福音を告げる者として、整えられなければなりません。そして、信仰をもって救いの確信に立っていかなければ、悪の力、悪魔の策略に対抗することは出来ないのです。だったら、どのようにして、それらの日々の歩みを整えることが出来るのか。


 第一に、「霊の剣、すなわち神の言葉を取る」ということです。神の言葉である聖書を読み、神の言葉である説教に聞き従っていくということです。当時、人々は聖書を自分の手にとって読むということは出来ませんでした。写本しかないのですから、聖書は、私共が考えるより、ずっと高価なものだったのです。だったら、「神の言葉を取る」とはどういうことだったのかと申しますと、聞いた聖書の言葉を覚えるということだったのです。覚えてしまえば、いつでも聖書の言葉と共にいることが出来るからです。しかし、私共はいつでも聖書を手にすることが出来るのですから、昔のように覚えることは必要でないかもしれませんけれど、その時、その時に適切な神の言葉を思い起こすことが出来る程に、聖書に親しんでいる必要があることは言うまでもありません。毎日、聖書に、神の言葉に触れている。このことは絶対に必要なことなのです。ただ読むというだけではない。聖書の言葉に触れながら生きるのです。このこと抜きに、私共が神の武具を身に着けることは出来ないのです。このことは、良く心得ていただきたいと思うのです。


 第二に、祈ることです。祈りは、自分の為だけになされるものではありません。「すべての聖なる者たちのために」、つまり、執りなしの祈りがなされなければならないのです。自分も祈り、又、祈られる。そういう、祈りの交わりの中に生きることなく、信仰の歩みを全うすることは出来ません。私共の信仰の歩みは、ただ一人ぼっちで神の国に向かって歩んでいるのではないのです。私共の信仰の歩みは、教会という、神の民の一人として、大勢の信仰の友と共に歩んでいるのです。このことを忘れてはなりません。孤独な信仰者は、サタンの格好の餌食となってしまいます。パウロは、このことを良く知っていました。だから、彼はここでも、「わたしのためにも祈ってください」と語っているのです。私共は、「私の為に祈って下さい。」と言える交わりの中に生かされているのですし、実際、祈りをもって支え合うという交わりを、いよいよ確かなものに造り上げていかなければならないのであります。

 水曜日の祈祷会において、現在、朝と夜を合わせて、20名くらいの方が出席されていますけれど、そこでは、主に執りなしの祈りがささげられています。私の願いは、そこで、更に豊かに、具体的信仰の戦いの中にある一人一人の為に祈りをささげたいということなのです。何度も申し上げます。私共はたった一人で神の国への道を歩んでいるのではないのです。教会という、神の国への旅人の集団、旅行ツアーといいますか、右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、共に歩んでいる者に囲まれているのです。そこには、足の弱い人もいれば、幼子もいる。その旅人の集団は、疲れ切った人をその場に残して、スタスタと行ってしまうなどということは決してしないのです。疲れた者は休ませ、いたわり、車に乗せ、共に旅を続けていくのです。

 御言葉と祈りです。ここに悪魔の策略に打ち勝つ道があります。これによってしか、私共は神様の偉大な力によって強くなることは出来ないのです。この神様の力によって強くされるのは、一人一人が強くされるということだけを意味しません。御言葉と祈りによって、神の民が、その全体として強くなるのです。

 私共は信仰の戦いが厳しくなる時、祈りの言葉さえ口に出なくなる時があることを知っています。その人が祈れないのならば、その人に代わって、誰かが祈らなくてはならないのです。そして、その祈りによって支えられる時、その試練の時をくぐり抜けた人は、今度は祈る人になるのです。

 御言葉と祈り、それは一見、何の力にもならないように見えます。この神の武具は、この世の悪の力に対して、何の対抗する力も持たないように見えるかもしれません。神の武具どころか、まるで裸同然のように見えるかもしれない。確かに、それは強力な武具には見えないかもしれない。しかし、これに勝る武具を私共は知りません。私共の戦いは、目に見えない敵との戦いなのです。不信仰、疑い、迷い、無関心、絶望、不安、利己心。その背後には、サタンが働いているのです。そして、それと戦う武具は、祈りと御言葉しかないのです。


 先程、ダビデがゴリアトと戦い、これに勝った所をお読みいたしました。ダビデは言います。45節「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。」49節「ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。」これは、私共の信仰の戦いを良く言い表しています。ダビデには、剣も槍も盾も兜もありませんでした。ダビデの手には、杖と石投げ紐しかありませんでした。一方ゴリアトは、背丈も高く、兜をかぶり、鎧を身に着け、足にはすね当て、肩には投げ槍を背負っていました。どう見ても、ダビデはゴリアトの敵ではありませんでした。しかし、戦いは一瞬にして、ダビデの勝利となりました。ダビデが強かったからではありません。ダビデが主以外に依り頼まなかった為に、この戦いが主の戦いとなったからです。ダビデは、神様の偉大な力によって強くされたのです。このダビデの姿は、私共の戦いの姿でもあるのでしょう。ダビデがゴリアトの武具に目がくらみ、自分も又、それと同じ様な武具を取らなければ勝てないと思い、それらに身を包んだのならば、ゴリアトと同じ武具を持って同じレベルで戦おうとしたのならば、きっとダビデは勝てなかったでしょう。しかし、ダビデは、全く別の戦い方をしたのです。これは主の戦いだ。主が戦って下さる。自分は主の戦いの道具となる。そこにダビデの勝利の秘密がありました。私共もそうなのです。神様が私共を用いて、一切の悪しき力と戦おうとされているのです。そうであるならば、負けるはずのない戦いなのです。私共の信仰の戦いは、御言葉と祈りをもってするならば、決して負けることのない戦いなのです。罪も死も、絶望も、すでに主イエス・キリストによって、敗れ去っているからです。その偉大な力が私共を包み、私共を強くして下さるのです。キリストと共に、キリストの勝利に与り、キリストの平安の中を歩む一年であるよう、祈りを合わせたいと思います。







[2005年1月1日]


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