日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教|過去の説教|「洗礼の秘義」[2005-02-06]




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イザヤ書 42章1~9節

ルカによる福音書3章21~22節


「洗礼の秘義」
イザヤ書 42章1~9節 ルカによる福音書3章21~22節
  小堀康彦牧師






 主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。どうして、主イエスはこの時、洗礼をお受けになったのでしょうか。バプテスマのヨハネが授けていた洗礼は、罪の赦しを得させる為の悔い改めの洗礼です。主イエスは赦されなければならないような罪があったのでしょうか。悔い改めなければならないような歩みをされていたのでしょうか。そうではないでしょう。主イエスは、真の神の子であり、罪なき真の人であられました。だったら、どうして主イエスは、洗礼をお受けになったのでしょうか。その答えは、主イエスの全生涯の歩みから明らかにされなければなりません。主イエスは真の神であられましたが、貧しき大工の子としてマリアより生まれました。そして、様々な教えを与え、奇跡を為し、病める者を癒されました。その歩みは、いつも罪人と共にありました。そして、ついに十字架の上で死にます。ゴルゴタの丘の上に立てられた主イエスの十字架、それは一本だけではありませんでした。主イエスの十字架の右と左には、十字架にかけられなければならない程の大変な罪を犯した者が、共に十字架にかけられていました。主イエスの歩み。それは一言で言い表すならば、「罪人と共に歩む神の姿」であったと言って良いと思います。「罪人と共に歩む」というのは、ほんの形だけ、ちょっとの間だけというのではありません。それは、まさに徹底的に、あのクリスマスの誕生の時から、十字架の死に至るまで、その線から少しもずれることなく、明確に貫かれた太い、主イエスの全生涯の心棒のようなものなのです。私の尊敬する恩師の一人、旧約学者であり東京神学大学の学長でもあった左近淑先生は、この主イエスの姿を「低きに下る神」と言い表されました。美しく、みごとな表現だと思います。天地を創られた全能の神の子が、まことの神が、低きに下られた。低きに下りて、私共と共に歩んで下さった。そして、今も、私共の一切の罪を担って私共と共に歩んで下さっている。これが、福音であります。

 主イエスの洗礼の出来事は、ここから理解されなければなりません。主イエスの洗礼は、特別な仕方で行われたのではありませんでした。21節「民衆が皆バプテスマを受け」とありますように、主イエスはヨハネから洗礼を受ける為に集まってきた民衆と共に、いっしょになって、その中の一人として、洗礼を受けられたのであります。罪の赦しと、悔い改めを必要とする全ての人々と共に洗礼をお受けになった。それは、罪人と共に歩まれる神、低きに下る神として、まことにふさわしい姿だったのであります。それは、にもはっきりと表れています。罪人と共に洗礼を受けるというあり方が、神様の御心に適うこと、これこそ、神様の御心を表すものだと、天の父なる神様ご自身が宣言されたということなのであります。

 主イエスは、この時祈っておられたと聖書は告げております。いったい、この時主イエスは何を祈られたのか。そのことについて、聖書は何も語ってはおりません。しかし、ここで少し思いを巡らすことが許されるだろうと思います。主イエスは、これから神の子としての公の歩みを始めようとされています。その初めの一歩が、この洗礼を受けるということでした。様々なことが考えられます。神の子として、教えを宣べ伝え始める。今がその時なのですか。そう問うていたのかもしれません。あるいは、洗礼を受けることによって、自分も又罪人の一人として歩むことになる。それで良いのですか。そう問うていたのかもしれません。神様の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、神様からのこの主イエスの祈りに対しての答えだと読んで良いだろうと思います。神様は、「それで良い。さあ、行きなさい。罪人の一人と数えられるものとして歩みなさい。それが、私の子に相応しい。」そう言われたのではないでしょうか。


 この時天から響いた言葉、これは昔から旧約聖書の二つの個所の言葉であると言われています。一つは詩編の第2編7節の言葉、「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。』」という言葉です。これは、王の即位の時に歌われたと考えられる詩編で、この言葉によって始まる主イエスの公の生涯は、神様の御前にまことの王として即位した者の歩みであるということを告げているのだと見るのです。これもなる程と思います。

 もう一つは、先程お読みいたしました、イザヤ書42章1節の言い換え、つまり、このイザヤ書の預言の成就であると見るのです。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。」「わたしの僕、わたしが支える者」というのが「わたしの愛する子」、「喜び迎える者」というのが「わたしの心に適う者」ということになります。この場合、その次に記されていることが重要になります。つまり、「彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」これは、主イエスが洗礼を受けた時に聖霊が鳩のように降ったこと、あるいは主イエスが裁き主として最後の審判の時に臨まれることを示しております。更に、3節「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」という所には、実に主イエスの罪の中であえぎ、痛み、苦しんでいる者と共に歩まれる姿を指し示していますし、6節「民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。」は、主イエスが新しい契約を立てる者として十字架におかかりになること、そして、人々の救いの光、希望の光となることを示しています。そして、7節の「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」には、主イエスの救いに与る者の姿が示されているのです。私は、このイザヤ書42章の言葉の成就として、この時の天からの声を受け取りたいと思います。


 さて、それではこの主イエスの洗礼と私共の洗礼とはいかなる関係があるのでしょうか。これについては、幾つものことを語ることが出来ますが、三つだけお話ししたいと思います。

 第一に、それは罪人と共に歩もうとされて、私共のもとに下ってこられた主イエスの招き、「私はあなたと同じ所に立つ者として洗礼を受けた。あなたも、私と同じ所に立ちなさい。」という主イエスの招きに応えるということです。求道者の方々と話をしていると、自分はお祈りしているし、教会の礼拝にも来ているし、別に改めて洗礼を受ける必要はないのではないかという問いを受けることがあります。洗礼を受けたからといって、何が変わるのか。ただの儀式ではないか。ひょっとすると、教会に来ている人を見ても、洗礼を受けたからといって何も変わるようには見えない。そんな思いもあるのかもしれません。多分、洗礼を受ける前、このような問いを誰もが抱いたのではないでしょうか。この問いは実に素朴なものです。しかし、この問いの背後には大きな傲慢があることを、私共は知らなければなりません。それは、主イエスが私共と共にあろうとして降ってきて下さったのに、私にはその必要はありませんと言っている傲慢であります。洗礼を受けるということは、主イエスが私共の為に低きに降ってきて下さった、この恵みを感謝して受け取るということなのです。主イエスがまず洗礼を受けられることによって、私の後に続けと、私共を招いて下さったのであります。もし、私共の中に、キリストのように、キリストに倣って、キリストの後に続いて生きたいという志が与えられるとするならば、私共は、まず、主イエスご自身が洗礼を受けられたことを覚えて、これに倣うのであります。これが第一歩なのでしょう。

 第二に、この洗礼によって私共はキリストと一つに結び合わされるということです。ローマの信徒への手紙6章3~5節は、洗礼の準備会で必ず学ぶ所ですけれど、こうあります。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」ここで、明確に「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」と言われています。洗礼を受けるということは、罪人である私はキリストの十字架と共に十字架につけられて死に、キリストの命、復活の命に生きる者とされるということなのであります。これは感じることではありません。信じることです。

 こう言っても良いと思います。私共は洗礼を受けても、すぐに自分が変わったとか、立派になったとか、そんなことはありません。もちろん、キリストに似た者に造り変えられていくのですけれど、それは少しずつです。しかし、この洗礼によって、決定的に、一瞬にして変えられることがあります。それは神様との関係です。私共はこの洗礼によって神様の子となるのです。これは神様との契約式だからです。もちろん、神様の本当の子は、独り子なる主イエス・キリストだけですけれど、私共は神様の養子として受け入れられ、神の子とされるのです。その契約式が洗礼式ということなのです。貧しい家で生まれ育った者が、ある日突然、王様の養子となったとします。今までの生まれ育ちがありますから、いきなり生まれつき王様の子のように立ち振る舞うことなど出来るはずがありません。しかし、馬子にも衣装で、その内、何となく、それらしくなっていくものでありましょう。私は牧師というものは、准允を受けて伝道師なり、更に試験を受けて按手を受けて牧師となるのですが、だいたい神学校を卒業して三年ぐらいでなるのです。しかし、按手を受けても牧師らしくは直ぐにはなれません。何となく牧師らしくなるのに、十年近く掛かるのではないかと思います。自分の歩みを振り返ってそう思うのです。按手を受ければ牧師です。その瞬間から牧師なのです。しかし、それらしくなるのには時間が掛かる。この時間を掛けて変えられていくということが、聖霊の導きの中で生かされていくということなのだろうと思います。キリスト者も同じことです。洗礼を受ければ、その瞬間から神の子なのです。しかし、それらしくなるには時間が掛かるのです。

 第三に、これは第二のことと重なりますが、洗礼を受けることにより私共は神の相続人となるということです。神の子とされるのでありますから、私共は誰はばかることなく、神様に向かって、「アバ、父よ」と呼ぶことが出来るようになります。そして、キリストと共に、父なる神様の持つ、良きもの全てを受け取る者とされるのであります。それは、神の国であり、永遠の命であり、栄光であり、祝福であり、平安であり、喜びであり、真理であり、善であります。これは、その他いくらでも挙げることが出来ます。サタンの支配から、神の支配のもとに生きる者とされるのです。


 実にありがたいことであります。洗礼という、目に見た所では、単に頭に水をかけるだけの儀式にすぎない様ですけれど、そんなものではないのです。主イエスが洗礼をお受けになった時、聖霊が降って来た。そう聖書は記します。この時、聖霊が降らなければ主イエスは聖霊を持たなかったのでしょうか。そうではないのです。主は、父・子・聖霊なる三位一体の永遠の交わりをお持ちなのです。ここで、主イエスに聖霊が見えるようにくだられたというのは、私共が洗礼を受ける時にも又、聖霊が降る。そのことを示すためだったのです。ですから、私共が父・子・聖霊の御名によって洗礼を受けるとき、私共には聖霊が注がれるのです。私共はそれを信じて良いのであります。そして私共は、洗礼を受けて聖霊を注がれることによって、神の子とされることによって、この時主イエスに告げられた父なる神様の言葉を、私共に向けられた言葉として受け取ることが許されるのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉です。これが、私共に告げられているのです。そう読んでよいのです。「それは、とんでもない。それは主イエスに告げられた言葉で、自分にはまったくふさわしくない。」そう思うでしょう。その通りであります。まことに、とんでもないことです。しかし、このとんでもない恵みを受け取るというのが、まさに福音なのです。福音というものは、どこまでも、とんでもないことなのです。私共のどこに、神様に愛されるべき所がありますか。神様の愛に値する所がありますか。私共のどこが、神様の御心に適うのですか。そんなものは、どこにもありません。どこにもないのに、神様はそう言って下さる。主イエス・キリストの故にです。神の愛する独り子が、私共の所に降ってきて下さった故に、神様は私共を愛する独り子と同じ者として、私共を見て下さるというのです。これが福音なのです。


 私共は、今から聖餐に与ります。この聖餐に与るということは、自分が洗礼を受けた者であるということを、新しく心に刻む時でもあるのです。先程、洗礼というものは神様の養子とされる、契約式だと申しました。その関連で言うならば、この聖餐というのは、契約の更新なのです。新しく、神様と結んだ契約を心に刻むのです。キリストと一つにされている恵みを味わい知るのです。最早、生きている私ではない。我が内に生きるキリストなり。私は神のもの、キリストのものとされている、このことを心に刻むのです。聖餐式の式文において、「ふさわしくない者は」と言われます。この言葉を聞くと「ドキッ」とするという人もいるでしょう。自分は、聖餐を与るのに相応しくない。そう思う人もいると思います。しかし、ここで「ふさわしくない者は」と言われているのは、「この神様の恵みを受け取ろうとしない者」という意味なのです。何か良い人間になって、神様の恵みにふさわしい者になった者が、この聖餐に与るというのではないのです。そんなことを言えば、「ふさわしい者」など、ここに一人もいないのです。このとんでもない恵みを、とんでもない恵みとして、ただ感謝をもって受け取る者、それが「ふさわしい者」なのです。

 神様に与えられた、この礼拝から始まる新しい一週間の命。それは、たとえたどたどしい歩みであったとしても、神様の御前にささげられていく歩みなのです。そういう者として、私共は神様に新しくされたのです。このことを感謝しつつ、一足一足、先立ち給うキリストの御足の跡を踏みしめていきたいと思います。






[2005年2月6日]


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