日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教|過去の説教|「荒野の誘惑I」[2005-02-20]




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申命記 8章1~10節

ルカによる福音書4章1~13節


「荒野の誘惑I」
申命記8章1~10節 ルカによる福音書4章1~13節
  小堀康彦牧師








 主イエスは悪魔から誘惑をお受けになったと聖書は記します。この記事を読んで、私共の頭の中にまず思い浮かぶのは、どうして主イエスが悪魔の誘惑をお受けになったのかということでしょう。しかも、聖書によれば”霊”によって、つまり聖霊によって引き回されてとありますから、この悪魔による誘惑は父なる神様も承知しておられることである。もっと言えば神様の御心の中で、主イエスは悪魔の誘惑をお受けになったということであります。いったい何故なのか。この問いは、主イエスが洗礼を受けられた所を学んだ時にも申し上げましたが、主イエスの全生涯の歩みから見なければ判りません。主イエスは、この悪魔の誘惑を受けてから、公の生涯、神の子としての宣教を始められる訳です。とすれば、この悪魔の誘惑は、公の生涯を始めるに当たっての最後の備えであったと言って良いでしょう。主イエスの神の子としての公の生涯は、十字架への道でありました。確かに主イエスは、様々な奇跡を為し、様々な教えをお語りになられました。しかし、その全ては十字架への道であったと言って良いでしょう。この十字架への道を忘れてしまえば、主イエスの言葉も業も、その一切の焦点がぼけてしまうのです。とするならば、この荒野における悪魔の誘惑は、十字架への歩みという主イエスの公の生涯の筋道を決定付ける、最後の備えの時としての出来事であった。そう言って良いのではないかと思うのであります。主イエスは、この世の命ではなく永遠の命を与える神の子として歩む。この世界の王としてではなく神の国の王として歩む。力の王としてではなく愛の王として、仕えられる主としてではなく仕える主として歩む。そのことが、決定された時であったと言って良いと思います。

 第二に、主イエスは悪魔の誘惑に勝ちました。このことによって、私共が出会う誘惑にも勝利の王として共に戦い、私共を勝利へと導いて下さることになったということであります。主イエスは、私共が出会う誘惑を知っています。それがどんなに力があり、巧妙であるか、よくご存知です。ご自身も誘惑に会われたからです。しかし、それに打ち勝つ力を持っておられるのです。その力を、主イエスは私共の為に用いて下さいます。私共の信仰の歩みには、戦いがあります。罪と戦い、誘惑と戦わなければならないのです。例えば、私共が日曜日の朝、この礼拝に集っている。このことも又、誘惑との戦いに勝ったから、ここに座っているのでしょう。仕事が、家事が、勉強が、友人との遊びが、休息が、私共を誘った。しかし、私共は主を礼拝する為に、ここに集ってきた。誘惑に勝ったからです。これは小さな戦いかもしれませんが、とても大切な戦いです。この戦いに敗れてしまえば、私共は信仰の歩みを全うすることは決して出来ないからです。

 私は、この悪魔の誘惑に勝つ、一つの良い方法は、正しい習慣を身に付けることだと思っています。祈ることも正しい習慣の一つですし、毎日聖書を読むことも正しい習慣です。毎週礼拝を守ることも正しい習慣の一つです。例えば、毎週の日曜日に礼拝を守ることも、それが習慣になってしまえば、特に誘惑と戦わなくても良くなります。当たり前のことだからです。しかし、これが習慣になっていない人にとっては、日曜日の朝を迎えるたびに、大変な戦いをしなければならないことになってしまうのです。もちろん、習慣だけで信仰の戦い、悪魔の誘惑との戦いに勝つことは出来ません。御言葉と祈りという神の武具を身に付けなければならないことは、言うまでもありません。この御言葉と祈りという神の武具をもって様々な誘惑と戦う時、この荒野の誘惑において勝利された主イエス・キリストが、私共と共に、私共に代わって戦って下さり、私共を勝利へと導いて下さるのです。

 この悪魔による誘惑が、主イエスの十字架への道の備えであったこと。そして主イエスは私共の為に、私共に代わって誘惑と戦い勝利して下さったこと。この二つのことを覚えて、この個所を読んでいきましょう。今日は、三つの誘惑の全てを見るには、時間が足りません。最初の一つだけを見ることになると思います。後の二つは、次の説教で学ぶことにします。


 2節を見ますと、主イエスは「40日間」悪魔から誘惑を受けたと記されています。その間、主イエスは何も食べなかったというのです。40日間の断食。これはもう、私の想像力を超えています。病気で寝込んだりしない限り、一日の断食でも、私には出来そうもありません。この40という数字で思い起こすのは、ノアの洪水において雨が降り続いたのが「40日40夜」であったと、創世記7章4節に記されています。又、出エジプトの旅は40年でした。この40という数字は、聖書においては試練の時を示していると言って良いと思います。更に、出エジプト記34章28節を見ますと、「モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。」とあります。私は主イエスの40日間の断食は、この時のモーセの姿と重なっているのではないか、この時のモーセの姿が雛形になっているのではないかと思います。このモーセが40日間パンも食べず、水も飲まなかったのはどういう時かと申しますと、シナイ山において、モーセが十戒をいただき、イスラエルの民の所に戻ってきました。すると、人々はモーセが山から下りてくるのが遅くて待ちきれず、こともあろうに、アロンに言って金の子牛を造り、それに犠牲をささげて礼拝していたのです。モーセは怒り、手にしていた十戒を記していた石の板を砕いてしまいました。しかし、モーセは主に執りなしをし、再び十戒を授かる為にシナイ山に登りました。そして、再び十戒をいただく時、モーセは40日40夜、断食したのです。せっかく神様と契約を結び十戒をいただいてきたのに、金の子牛を造って罪を犯したイスラエルの民。それを執りなし、再び十戒を授かるモーセ。この時の40日40夜のモーセの断食は、この荒野の誘惑の時に主イエスが40日間断食されたということの下敷き、預言になっているのではないかと思うのです。なぜなら、この時から主イエスも又、全ての罪人の赦しの為に十字架への歩みをしようとしている。新しい契約を神様との間に打ち立てようとしているからです。この40日間の断食を単に、次の「石にパンになるように命じてみよ。」という悪魔の誘惑の導入の為にあると見てはいけないのではないかと思うのです。そうではなくて、この荒野における悪魔の誘惑というものが、何を意味しているのか、そのことを示しているのであります。


 さて、第一の誘惑、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」でありますが、これは文字通りにとれば、主イエスに対してだけの誘惑ということになるのだろうと思います。何故なら、私共には石をパンに変えることの出来る力はありませんから、これは私共にとっては誘惑にも何にもならないのです。空腹のあまり、石がパンに見えることはあるかもしれませんが、石をパンにすることは出来ません。ここで、悪魔の誘惑というものは、力がある所にこそやってくるものだということが判ります。お金の算段が上手な人は、そこに誘惑が来ますし、異性にもてる人はそこに誘惑が来る。

 主イエスは、この悪魔の誘惑に対して、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある。」と聖書の言葉を引用してこの誘惑を退けられました。この主イエスの答えは、大変有名です。聖書をあまり読んだことのない人も知っている。しかし、聖書をきちんと読んだことがないせいでしょうか。誤解に基づく批判が良くされるのです。例えば、こういう批判です。キリスト教は「人はパンだけで生きるものではない」などと言うが、パンがなくてどうして生きていけるのか。人が生きる上でまず大切なのはパンだ。そのことを軽く見るようなキリスト教は現実的ではない、理想主義だ。というような批判であります。しかし、主イエスはパンの問題、これは私共の日常の生活の問題と言い換えても良いかもしれませんが、これを軽んじた訳ではないのです。人間はパンがなければ生きられない。そんなことは解り切っています。問題は、パンさえあれば良いのか。あるいは、そのパンを得るということは何を意味するのかということなのです。

 この主イエスの答えは、先程お読みいたしました旧約聖書の申命記8章3節からの引用です。そこを見ますと、「人はパンだけで生きるものではない」で終わっているのではなくて、その後に「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉が続いているのです。この言葉は、イスラエルの民が出エジプトの40年の旅の間、天からのマナによって神様に養われたということを示して告げられている言葉です。つまり、40年の間イスラエルの民は天からのマナによって神様に養われ、生かされたではないか。主の言葉に従って生きる時神様によって全てが守られることを、あの40年間の旅の間中、学び続けたのではないか。そう言っているのです。

 ここで示されていることは、「パンを得る」そこにおいてこそ、私共は罪を犯し、誘惑に陥るということではないかと思うのです。パンを得る。確かに私共は自分で働き、それを手に入れる。その時、主が自分を養って下さっているということを忘れるのであります。私共は石をパンに変える力はないけれど、自分の力でパンを得ることが出来る、得ている。そう考えてしまう所があるのではないでしょうか。しかし、主イエスはそうではない。私共がどんなに努力してパンを得たとしても、それは主の養いの中に生かされているということなのであって、自分の力で、神様なしに生きているということではない。そう言われたのだと思うのです。

 私は、洗礼を受ける人、あるいは幼児洗礼を受けさせる両親に対して、食前の祈りを習慣として身に付けなければいけないと、必ず言います。それは同じ言葉であっても良い。私の家でも、娘が自分で言葉を話せるようになってから、幼稚園の頃だったと思いますが、いつも決まった小堀家の祈りともいうべき祈りを作り、娘に教え、娘がそれを食事の前に祈ることになりました。時に、他に祈るべきことがあると、私や妻が、それに加えて何か祈ります。食前の祈り。それは、この食事が神様の養いであることを心に刻む為にこそなされるのです。このことを忘れる時、私共は神様なしに、自分の命があるかのように錯覚するのです。ここに、実に見事に悪魔の誘惑に敗れている人間の姿があると私には思えるのです。

 私共も主イエスにパンばかり求めることがあるのではないでしょうか。神様、私を愛しているなら、このくらいのことはしてくれても良いではないですか。そんな風に、これが与えられるように、あれが与えられるようにと祈ることがあるでしょう。その祈りが悪い訳ではない。しかし、そこで私共は、自分たちに与えられると約束されているものが「まことの命」、「永遠の命」であるということを忘れてはならないのです。この地上の命が全てではないのです。主イエスは、この永遠の命を私共に与える為に地上に来られた。だから十字架におかかりになられたのでしょう。この世の命だけなら、パンを与えれば済むのであって、主イエスは十字架にかかる必要はなかったのです。主イエスが人々にパンを与えたならば、人は主イエスについてきたでしょう。主イエスを十字架にかけることもなかったでしょう。しかし、それは天の父なる神様の御心ではなかったのです。私共がパンだけで生きているのではない。神様の言葉によって生きる。私共の一切の歩みは神様の養いの中にあり、この神様の言葉に従って生きる時、私共は罪と死から解放され永遠の命に生きる者となる。そのことにこそ、主イエスがこの第一の悪魔の誘惑を退けることによって、私共にお示しになったことではないかと思うのであります。

 良いですか。私共にとってパンの問題はいつも重要です。しかし、そのパンの問題も又、神様の言葉に従って生きる時に添えて与えられるものであることを知らなければならないのです。主イエスは言われました。「神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」私共の求めるものは神の国と神の義です。神の言葉、神の支配、それを求める中で、パンの問題も又、主によって解決されていくことを、私共は信じて良いのです。そこに、私共が、思いわずらわないで良い道が開かれていくのでしょう。パンの問題で頭の中が一杯になってしまう時、神様を見上げて祈りましょう。「人はパンだけで生きるものではない」と言い切って下さった主イエスが、必ず道を拓いて下さるのです。主イエスは、無責任な方ではない。パンの問題は私は知らん。そんなことをここで言われているのではないのです。パンの問題も、私は知っている。その困窮も知っている。私は、父なる神様が出エジプトの時にイスラエルの民をマナで養った様に、私もあなたを養う。だから、安心して、あなたは神の国と神の義とを求めなさい。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る全ての言葉によって生きることを、あなたはその困窮の時に働かれる神様のみ業を通して知ることになる。そう言われているのでありましょう。私共は、この主イエスの言葉を信頼して、安んじて、この一週間も主の御前に歩んでまいりたいと思います。







[2005年2月20日]


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