日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教|過去の説教|「荒野の誘惑 II」[2005-03-06]




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申命記6章1~19節

ルカによる福音書 4章1~13節


「荒野の誘惑 II」
申命記6章1~19節 ルカによる福音書4章1~13節
  小堀康彦牧師







 前回に引き続きまして、主イエスが荒れ野において悪魔から誘惑を受けられた、その出来事から御言葉を受けてまいりたいと思います。前回、この主イエスが誘惑をお受けになったという出来事は、第一に主イエスの公の生涯、伝道の歩みは十字架への道であるということが決定された出来事であったということ。第二に、主イエスが悪魔の誘惑に勝利して下さった故に、私共も又主イエスと共に様々な誘惑に打ち勝つことが出来る。この二つのことを確認いたしました。この二つのことを思い起こしつつ、今日は、主イエスが受けられた三つの誘惑の内、第二の誘惑と第三の誘惑について見てみたいと思います。


 第二の誘惑、それは悪魔が主イエスに全世界の一切の権力と繁栄を見せて、自分を拝むならば、これら全てを与えようと言ったと言うのです。これは当時のことですから、さしずめローマ帝国の皇帝にしようということではなかったかと思います。私共が、使徒信条において、礼拝のたびごとに「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と唱えておりますように、主イエスはローマ帝国の総督によって十字架につけられたのでありますから、もし主イエスがローマ帝国の皇帝になれば、十字架につけられることはなかったということになるでしょう。それどころか、その後弟子達が命がけで全世界に出て行って伝道する必要もなかったということになっただろうと思うのであります。実際、コンスタンチヌス大帝によって313年にキリスト教が公認され、その後テオドシウス帝によってローマの国教となりまして、キリスト教はヨーロッパ全域に圧倒的な勢いで広がり、いわゆる「キリスト教社会」、揺りかごから墓場まで、生活の隅々に至るまでキリスト教によって形作られる社会を形成することとなったのです。もし、この時主イエスが悪魔の申し出を受け入れていたのなら、キリスト教はまたたく間に全世界に広がったに違いないのです。そして又、当然主イエスは十字架におかかりになることもなかった。そう考えますと、この時の悪魔の誘惑は、主イエスに対してどれ程力を持ち、魅力的なものであったかったかを想像することが出来るだろうと思います。しかし、もしそのようなことになったのなら、主イエスも又、たくさんある偶像の一つになってしまったのではないか、そう思うのです。主イエスの時代、又主イエスの弟子達が伝道したローマの時代、皇帝崇拝というものがあったのです。ローマ皇帝は、主「キュリオス」と呼ばれていた。この時、悪魔の申し出を主イエスが受け入れていたのなら、歴代のローマ皇帝が人々に主と呼ばれていた様に、主イエスもローマの人々から主と呼ばれることになったでしょう。ローマ帝国時代のキリスト教の迫害の理由の一つは、キリスト教徒達が、主イエスに対してのみ、主「キュリオス」と言って拝んで、ローマ皇帝に対しては主「キュリオス」と呼ばなかったことによるのです。しかし、はたしてそのようにして人々に拝まれるキリストは、まことの「救い主」と言えるでしょうか。又、そのように広がったキリスト教は、私共が信じ、知っているキリスト教徒は、全く別のものになっていたのではないでしょうか。罪の赦しもなければ、永遠の命もない。この世の命を楽しむ為の宗教、現世利益の為の宗教になっていたのではないでしょうか。キリストによる「命の救い」を台無しにする、それこそ悪魔の誘惑の最大の目的だったのです。主イエスはこの時、この世の王として歩まないという決断をされたのです。教会はこのことを忘れてはならないのです。私は、巨大で豪華な教会を見ると、どうも違和感を覚えてしまうのです。人々の上に君臨する教会、そして聖職者、それは違うと思うのです。この悪魔の誘惑を退けられた主イエスを頭とする教会の姿ではない。そう思うのです。

 主イエスは、ここで悪魔の誘惑を退けます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という、先程お読みいたしました申命記6章の13節の御言葉をもって退けられたのです。私共はこの言葉が申命記の言葉であることを直ぐに思い起こすことが出来なくても、これが十戒の第一の戒「あなたは、わたしのほか何ものをも神としてはならない」の言い換えであることは直ぐに判ると思います。十戒、それは私共が悪魔の誘惑を退ける、とても大切な武器なのです。主イエスは、そのことを実際に悪魔の誘惑を退けることによって、私共に示してくださったのです。十戒というのは、私共の上にのしかかる重苦しい戒めというようなものではなく、私共を悪魔の誘惑・滅びから救うためのこっちに行ってはいけないというガードレールのようなものなのです。私共は、悪魔の誘惑にあったときに、この十戒を用いて「十戒において、こう命ぜられている。だから、そんなことはすることは出来ない」と言って、それを退けることが出来るのです。これは、私共に与えられた武器なのです。

 この世の力と繁栄、それは私共の信仰の歩みにおいても、いつも誘惑となります。私共の信仰の歩みが道からはずれてしまう。それは、私共が苦しみに会った時、「どうして、神様は私に何もしてくれないのか。神様は本当に私を愛しているのか。」そういう疑いの心が湧いてくる。そういうことがあることは皆さんも良く知っているでしょう。しかし、誘惑というのはそれだけではないのです。その人が人生において、いわゆる成功を収めた時、これも又、私共にとっての誘惑の時となるのです。忙しくなる。礼拝を守ることもままならなくなる。そして自然と教会から足が遠のいていく。この場合は、苦しみの時よりも、本人の自覚は薄いものです。何となく、祈る時が減り、礼拝に集う回数が減っていく。ちゃんと理由もつくのです。仕事が入る。時間の都合がつかない。仕方がない。それが続いていく内に、礼拝に集わないことが当たり前になってしまう。私共は、このようになる前に、悪魔の誘惑というものが、私共に対して、実に巧妙であることを、よく知っておかねばならないのだと思います。そして、私共は、この世の力と繁栄を手に入れる為に信仰しているのではないということ、この世の力と繁栄が私共をまことの幸いに導くものではないということを明確にしておかなければならないということなのではないでしょうか。

 私が神学校を卒業する時、任地が決まり、そこには幼稚園があるということを知ったある教授が、「小堀君、誘惑だね。」と一言私に告げられたのを忘れることが出来ません。その時には何のことか良く判りませんでしたけれど、今はその意味が良く判ります。田舎の小さな町で伝道していて、誰も牧師であるということでは相手にもしてくれません。ところが、幼稚園の園長というだけで、町の人が皆ていねいに応対してくれるのです。町を歩いていても、皆が挨拶してくれるのです。毎日、毎日伝道していても、一年で一人も受洗者が出ない。そういうこともあるのです。一方、幼稚園は黙っていても何十人という子どもが入園してきて、その家族とも親しくなる。私が舞鶴から富山に来て、一番変わったことは、町を歩いていても誰にも挨拶しないで歩くようになったということです。舞鶴では、歩きながら、車を運転している人にまで挨拶していました。何となく、牧師よりも園長の方がやり甲斐がある、楽しい仕事のような気がしてくる。これは明らかに誘惑です。私は教会は幼稚園や保育所あるいは老人施設を持たない方が良いとは思いません。それは神様の愛を伝える大切な業となるでしょう。しかし、それが誘惑ともなることを良く知っていなければならないということなのです。教会が力を持ち、牧師がこの世的に豊かになりますと、教会の歴史の中で、必ず「聖職売買」ということが行われるのです。牧師の職を売り買いするということが起きるのです。想像できないかもしれません。日本の教会の牧師は、そのような心配はありません。それが行われたという話も聞いたこともありません。豊かでないからです。その分、誘惑から守られている所があるのかもしれません。「神と富とに兼ね仕えることは出来ない。」と主イエスが告げられた言葉を思い起こすのです。


 さて、第三の誘惑。悪魔は主イエスをエルサレムの神殿の上に連れて行き、そこから飛び降りたらどうだと言うのです。エルサレムの神殿、そこには救い主、メシアを待ち望む人々が集っています。その中に天から人が降りてくる。これは、神の子、救い主の登場の仕方としては、実に効果的です。天から降りてきた主イエスを、人々は疑いなく神の子として受け入れたことでしょう。もちろん、これを受け入れれば、十字架にかかることはなかった。しかし、主イエスは、この申し出も退けられました。主イエスは、奇跡という手段を用いて、自らが神の子であることを示すという道を退けられたということなのです。主イエスは確かにいくつもの奇跡をされました。しかし、それで人々を集めたりするというようなことの為に用いたことは一度もありませんでした。

 私は牧師をしていて、この誘惑はとても判るのです。私が入院している教会員の所を訪ねる。枕元で祈る。すると病気がたちまた治ってしまう。そんな力を私が持っていれば、伝道はどんなに簡単だろうかと思うのです。きっと日曜日の朝は、押すな押すなの人の群で、この会堂は入りきらない人達で溢れることでしょう。そして、集まった人々を前に、病気を治してみせる。教会員は、口々に、「あの人の病気は治った、この人の病気も治った。教会に来てあなたも信じなさい、そうすれば、病気が治る。」実に判りやすい。病院は、さしずめ伝道の一番の場所となる。人は半信半疑で教会に来て、目の前でなされる癒しの奇跡に、信じざる得ないものとなる。そして、自分も、自分の家族も癒して欲しいということになる。あっと言う間に、千人、一万人の教会になると思います。しかし、私にはそんな力はありません。そして、ここまで考えて私は思うのです。主イエスはその力をお持ちになっていたけれど、その力をもって、奇跡の力をもって、人の心を捕らえるようなことはなさらなかった。何故か。それは、主イエスの福音は、罪の赦しであり、この世の命を超えた永遠の命だったからでしょう。主イエスを信じなさい。そうすれば、病気は治ります。それは、主イエスが選ばれた道ではなかったということなのです。何故なら、病気が治っても、その人は何年後かに必ず死ぬのです。必ず死ぬのです。病気の癒しは、決して本当の救いではないのです。この死の問題を解決しなければ、私共は本当の所で救われることはないのです。

 さて、この第三の誘惑の特徴は、悪魔も又、聖書の言葉を用いて誘惑しているということです。ここで悪魔が引用しているのは、詩編の91編の御言葉です。聖書の言葉というものは、そこに記されている意味・目的をきちんとわきまえないならば、悪魔でさえも引用することが出来るものだということなのです。神様の御心に反する、神様の思いと正反対のことを正当化する為に、聖書の言葉を用いるということも起き得るということです。聖書は、そこに何が記されているのか、何を告げようとしているのか、その聖書全体のことが判らないと、誤解してしまうということでもあるでしょう。

 主イエスは、先程お読みいたしました申命記6章16節の言葉で悪魔の申し出を退けられました。「神様を試してはいけない。」これも、私共が良く心に刻んでおかなければならない御言葉でしょう。私共は、しばしばこの過ちを犯してしまいます。第二の誘惑が、成功した時の誘惑とするならば、これは、苦しい時・困難な時の誘惑と言っても良いかもしれません。神様が、私を本当に愛しているのならば、どうして、こんな目に会わなければならないのか。神様、私を愛しているのなら、こうして下さい。そんな祈りをしてしまうことが、あるのではないでしょうか。「もし、あなたが本当に神様なら、こうして下さい。」こう祈る時、私共がこの悪魔と同じ言葉を用いて、神様に迫っているのだということでしょう。この悪魔のささやきは、実は私共の心の中にあるささやきだということなのではないでしょうか。私はこう思う。私共が、「もし、あなたが神であり、私を愛しているなら、こうして下さい」そう祈る時、この悪魔の誘惑を退けられ、十字架への道を選ばれた主イエスは「私はあなたの為に十字架にかかった。それではまだ足りないのか?」と答えられているのではないか。

 実は、この「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」という言い方は、主イエスが十字架におかかりになった時、主イエスを罵る者達が口にした言い方と同じなのです。23章35節「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」37節「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」39節「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」こことは、主イエスが十字架におかかりになられた時、主イエスは最も激しく、厳しく悪魔の誘惑に会っていたということを示しているのではないでしょうか。この十字架の場面に、悪魔は直接には出てきません。しかし、人々の口を借りて、悪魔は最後の、そして最大の誘惑をしていたのです。もし、主イエスがこの時十字架から降りてきてしまえば、神様の救いのご計画は根本から崩れます。人類は誰一人として救われることはなく、それ故、主イエスが十字架から降りた瞬間に、この世界の歴史・人類の歴史は閉じられたのではないかと私は思います。4章15節に「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」とありますが、この「時が来るまで」とは、まさに、主イエスが十字架にかかるその時まで、という意味なのではないかと思います。


 主イエスは、この悪魔の誘惑を退けることによって、十字架への道を明確に選び取られたということなのであります。主イエスに従って生きるということは、私共も又、悪魔の誘惑を退け、神様を試みることなく信頼し、この世の栄えを求めず、ただ神の国と神の義とを求めて歩んでいくということなのでありましょう。「ただ、神にのみ栄光あれ。」この道を歩もうとする者は、又、様々な誘惑というものにも出会わざるを得ないのです。主イエスの十字架への道を悪魔がはばもうとした様に、主イエスに従っていこうとする者は、悪魔の誘惑と必ず出会うことになるのです。必ずです。例外はありません。しかし、その時私共は、主イエスが誘惑に勝利されたことを覚え、この勝利の主が私共と共に、私共に代わって戦って下さることを、信じ、主の助けを求めましょう。主は必ず祈りに応えて下さいます。その為には、私共は主の助けを求める祈りを忘れてはならないということなのでありましょう。祈らない者は、自分の力だけで悪魔の誘惑と戦わざるを得ないのです。そして、その戦いは残念ながら勝つことはないでしょう。悪魔は私共が一人で戦って勝つことが出来る程、弱くも愚かでもありません。力があり、私共の最も弱い所を突いてくる知恵もあるのです。ですから、私共は主イエスの助けを求めなければならないのです。どんな強い、ずる賢い悪魔も、主イエスに勝つことは出来ません。それは、すでに証明されていることです。主イエスの助けを求めつつ、この一週間、私共が一切の悪魔の誘惑から守られて、神の国への歩みを全う出来ますよう、共に祈りを合わせたいと思います。







[2005年3月6日]


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