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申命記 34章1〜8節

ヘブライ

「約束を信じて」
申命記34章1〜8節 ヘブライ人への手紙11章13〜16節 大久保照教師(元当教会牧師)

 申命記34章はユダヤ人にとって何よりも大切なモーセの五書の終結であると共に、モーセの生涯の最期を記す箇所です。
 エジプトの奴隷として苦しんだイスラエルの訴えに神が応えられたというエジプト脱出の物語は、偉大な指導者モーセの死をもって終わります。主なる神が与え給うた課題を担うモーセは、その務めを全うしたのであります。

 信仰に生きるとは「夢を見て生きる」ということです。普通、私達が見る夢は、目覚めた時には消えてしまうものであり、また覚えている部分もおぼろげであることが殆どでしょう。それゆえにニンベンに夢と書いて儚い(はかない)と読むのです。
 しかしながら、信仰に生きる者の特徴としての夢は、目覚めと共に消えるものではなく、実現される夢であります。それゆえに、ここで述べる夢とは希望のことであり、旧約の時代、神の御心はしばしば夢を通して伝えられため、信仰に生きる者を「夢見る人」と呼ぶようになりました。エジプトへ家族を導いたヨセフが、兄弟達から「夢見る人」と呼ばれていたことはよく知られている通りです。
 パウロもまた、「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリントの信徒への手紙一13章12節)と、現在における信仰の特徴を述べています。  それは鮮明なしるしではありませんが、この世の不純物が取り去られた時、明らかになるものであり、神の国における永遠の生命への目覚めの時に実現される夢なのです。ですから、通常の夢が眠っている間だけのものであるのに対し、信仰の夢は、「眠りから覚める時を待ち望む夢である」と言えるでしょう。モーセは、このような意味で、夢に生き夢に死んでいったのです。

   モーセは、旧約における最大の人物と言われており、或る人は、モーセについて次のような評価を与えています。
 「神に選ばれながら困難な使命に尻込みする者。口が重く、言葉の人ではないが、御言
  葉に服従し、奇跡に支えられ、御心に挑戦する者に立ち向かい、ファラオとさえ格闘
  して勝ち、さすらう民の仲裁者にして、決して休まず、絶対に事を投げない不屈の闘
  士」                  (F.ジェイムス「旧約聖書の人々」)
 実に数多くの言葉を連ねたものです。幾つかの矛盾を示してはいますが、大事業を成し遂げたモーセの人物像は、これでも未だ足りないと言えるかもしれません。
 しかしながら、モーセにおいて見なければならない最も価値ある特徴は、神から示された夢に「生涯を賭けた」ということです。いくら言葉を重ねてもなお足りない程の数々の業績、そこに与えられた評価は、彼が見続けた夢の実現への過程において生じたものに他なりません。
 それゆえに、モーセの生涯の最期を見る時、改めて教えられるものは、人が過去を振り返る時に大切なことは「自分が何をして来たか」ということではなく、「どのような夢を見て来たか」ということを問うことなのです。

  「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に
   登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダン
   まで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネ
   ゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。」(1節〜3節)
 ネボ山は、現在ではヨルダンに属する、死海東岸のモアブ台地上に連なる山脈の北端にある海抜800メートルの山ですが、その真下にある死海が海面下400メートルであるため、死海の西側、死海写本で有名なクムランの辺りから見ると標高差1200メートルの高さでそそり立っています。ピスガは、そのネボ山の最も北西に張り出した峰で、眼下に死海、ヨルダン渓谷を望み、その彼方にエリコ、ユダの荒野というカナンの地を見下ろす場所です。
 四十年にわたる荒野の旅を終え、ヨルダンを東から迂回したイスラエルは、対岸にエリコを見るヨルダン渓谷、モアブの野にようやく到達したのです。そして、まさに長い間の夢の実現の時を目前にして、モーセは、主の御言葉に導かれてピスガに登りました。
 眼下に広がるカナンの地を見たモーセはどうであったでしょうか。この土地こそ、彼が初めてシナイ山で神の召しを受けて以来、生涯にわたる数々の苦しみの中で夢に見続けて来た場所・乳と蜜の流れる地でありました。

 今私達は、この箇所を簡単に読んでいますが、出エジプト記から始まるモーセの物語を読み続け、ようやく到達したこの申命記34章を、何の感動も覚えず読む人はいないでしょう。モーセの生涯における最大の感激の瞬間であります。
 妻子と共に過ごした砂漠の平穏な生活を捨てたのは、何のためであったのでしょうか。人前で語ることが不得手な性格のため、尻込みをしつつも神に励まされ、エジプトの王の前にまで出て行ったのは、何のためであったのでしょうか。イスラエルの民の解放を認めないエジプトの王に対し、数々の奇跡をもって対決したのは、何のためであったのでしょうか。荒野を旅すること四十年。絶え間なく繰り返される人々の不平、不満、反逆、そして彼個人に対してなされた侮辱にも耐えてきたのは、何のためであったでしょうか。その全ては、この土地のためでありました。
 イスラエルの人々が神と共に生きることを喜ぶ生活の出来る地。主なる神が祖先アブラハムに約束された、乳と蜜の流れる地へと人々を導いて来るためでした。神が与えて下さるところ以外に神の民の生きる地はないということを知らされ、主なる神がなし給うたこの約束に、モーセは生涯の全てを献げ尽くしました。

 それは長い苦しみの生涯でした。人々の無知と誤解の中で、彼は神の約束を語り続けて来ました。手近な生活の満足に惹かれて、神が与えて下さる幸福を見ようとしない人々の中で、モーセは、自分を召し出し給うた神にのみ希望を託して生き続けたのです。そして、四十年にわたる戦いの後、遂に辿り着いたのがピスガの頂でした。
 今、彼の目の下には、夢にまで見続けて来た土地が広がっています。神が約束された生活がそこで実現するのです。出エジプト記に始まる物語を読み続け、モーセと共に荒野の旅を追体験した者は、ここに於いて、モーセと同じ感動に打たれるでしょう。遂に目的地に到達したのです。主なる神は、決して夢を夢のままで終わらせることはなかったのです。
 私も、シナイの荒野を抜け、初めてピスガに立った時の感激を忘れることは出来ません。まさに身体中を突き上げるような感動でありました。

 しかし、その山の上でモーセに語られた御言葉はこのようなものでありました。
  「主はモーセに言われた。『これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イ
   サク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るように
   した。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。』」  (4節〜5節)
 これは実に残酷な宣言と言えるかもしれません。長く苦しい旅路の果てに、やっと辿り着いた約束の地を見るだけで、そこに入ることが許されなかったからです。このことは、既に語られて来たことではありました。
  「わたしは、そのとき主に祈り求めた。『わが主なる神よ、あなたは僕であるわたし
   にあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力あ
   る業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。どうか、わたしにも渡
   って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せて
   ください。』
   しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなか
   った。主はわたしに言われた。『もうよい。この事を二度と口にしてはならない。
   ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行け
   ないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。」    (3章23節〜27節)
 主なる神は、最後の時においても、砂漠に於いて繰り返されたイスラエルの罪を厳しく咎め、全ての者に審きを行うとされた「かつての怒り」を変えようとはなされませんでした。「犯した罪は決して赦されることがない」ということを、主はピスガを前にして、決定的に語られたのです。

 私達の生涯で、もしこのようなことがあったらどうでしょうか。忠実であろうと努力し、目指すものを目前にしながら遂に手にすることが出来ない人生。求めたものの実現を目にすることなく世を去らねばならない人生。恐らく私達は、その人の死を悲劇的であると言い、運命の残酷さを嘆くのではないでしょうか。
 そして同じように、ピスガに立つモーセの姿に涙するのではないでしょうか。それは人の情としては当然のことです。ピスガの頂に立つ者の誰もが感じる、言葉にならない思いです。

 しかしながら、私達は、まさにその点において、心の方向を変えなければなりません。何故なら、この物語を伝える聖書そのものが、モーセの死を決して悲劇とは語っていないからです。むしろ、主なる神が繰り返し「ピスガに登れ」と言われ、モーセが、その眼を最後まで約束の地へ向け続けていたということが、私達に何かを告げているのではないでしょうか。
 私達の社会における基準は、過去を見る目が余りにも強すぎるのです。その人が何をして来たのか、何を実現したのかを問います。努力しつつも世に受け入れられず死ねば「不運な人だった」と言い、功成り名を遂げた人は「幸運な人だった」と言うでしょう。しかし誰も「その人が何処へ行ったか」ということを決して問おうとはしません。死をもって全て終わる。それが私達の社会の評価なのです。

  「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかっ
   た。」                              (7節)
 聖書が力を込めて語ることはここにあります。
 「百二十歳」。単純には、エジプトの王子として四十年、ミデアンの羊飼いとして四十年、そしてイスラエルを導いて荒野を旅すること四十年。合計百二十年ということでしょう。
 しかし、旧約において「四十」とは、神が定め給うた特別の期間を指すものであり、「百二十年の生涯を終えた」とは「神によって定められた生涯を全うした」という意味で解すべきです。モーセは神によって定められた生涯をここに終えたということなのです。
 「目はかすまず」。「目がよかった」ということではありません。「信仰の眼は何を見つめていたか」ということです。彼がピスガにおいて、神が約束され、自分が目標として来たカナンの土地を「しっかりと見極めた」ということなのです。神の約束が確かなものであることをはっきりと確認したということなのです。
 死において、生涯の思いの確かさを確認出来るとは、何と幸いなことでしょう。自分があやふやな希望のもとに生涯を費やしたのではなかったという確認。無駄な人生を過ごしたのではなかったという保証。死の間際のこの認識こそ、あらゆるものに勝る幸せなのであります。
 「活力もうせてはいなかった」。「活力」(ラー)と訳されている言葉は、これまで「気力」と訳されて来た言葉です。この言葉は「潤い」とか「新鮮さ」という意味であり、さらに「瑞々しさ(みずみずしさ)」とも訳されます。即ち、「活力もうせてはいなかった」とは「心から潤いは去っていなかった」という意味なのです。
 これは実に意味深い表現です。即ちこの言葉は、モーセは老齢に達しても元気であったということを語るものではなく、「神によって召されるその時まで心は潤いに満たされていた」ということを告げているのです。
 「心の潤い」とは何でしょうか。それが「瑞々しさ」であり、さらに燃え上がる希望の火です。即ち、モーセは約束の地をしっかりと見極め、喜びに満たされて召されて逝ったのであります。
 化石のような信仰の残骸を抱え、疲れ果て、落莫たる思いの中で死を迎えたのではなく、初めの日の感動と消えることのない御言葉への信頼を抱き続けていたのです。それが、信仰の夢に生きた人間の、この世における最後の姿なのであります。

    モーセが最も大切にしていたのは何であったでしょう。最も強く求め続けて来たことは何であったのでしょうか。
 ヨルダンを渡り、カナンの地を自分の足で踏み締めたいというのは、大事業を始めた者として当然の願いであったでしょう。
 しかし、信仰に生きる人間の真実の願いは、自分に対して語られた神の御言葉の正しさの確認であり、自分の歩みが間違っていなかったことの保証ではないでしょうか。その信仰の正しさが確かめられれば、自分自身がカナンの地に入るか否かは問題ではありません。  私は間違ったものを見つめて来たのではなかった。
  私が求め続けてきたものは、何よりも価値あるものであった。
  私に語りかけ給うた方は、間違いなく神であった。
 モーセは、これを確かなものとして見極めたのです。
 それゆえにモーセは、生涯の最期に立ったピスガの峰において、自分の夢が、目覚めと共に消えるようなものではないことを確認して喜びに燃え上がった、と聖書は記しているのです。
  「主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至
   るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。」           (6節)
 エジプトの王は自分の名が永久に残るように巨大なピラミッドを造りました。ナイル沿岸には崩れ落ちた数多くのピラミッドの残骸が点在しています。またペルシアの大王クロスは「自分の墓だけは守ってくれ」と遺言して死にました。メディアの地にポツンと残る墓に、ここを通り掛かったアレクサンドロス大王は人生の無常を感じたと言われています。
 私達もまた、何時か年老い、この世を去って行きます。その人生には数々の思い出が残されるでしょう。
 しかし、信仰の夢に生きた人間は、人々に記憶されることも求めません。ただ神のみもとにある生命の書に名が記されたことをもって喜びとするのです。信仰に生き信仰に死んだ者には、神と共に生きる幸いが保証されているからです。
 ネボ山を訪ねた或る人が、そこにいた人に「モーセの墓は何処か」と尋ねました。「この山の全てが彼の墓だ」というのが答えでした。まさにピスガとは、私達全てが生涯の終わりに立つ場所の代名詞なのです。

  「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでし
   たが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮
   住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が
   故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のこと
   を思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、
   彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は
   彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されて
   いたからです。」           (ヘブライ人への手紙11章13〜16節)
 私達の生涯の夢は、この約束を信じ神の国を仰ぎ望むことです。私達の人生も長い苦しい旅でしょう。モーセが味わった荒野の四十年以上のものであるかもしれません。そしてその最期も、この世の人々の目から見れば報われないものであるかもしれません。
 しかしそれでもなお、主なる神が世に遣わし給うた御子キリストの約束を信じる者、イエス・キリストが与えて下さる神の国の生命を何よりも価値あるものと知る人間は、その生涯を、心の瑞々しさを保ったまま閉じることが出来るのです。  今、礼拝に集められた幸いを喜ぶと共に、生涯を貫く信仰の夢を、さらに一層確かなものにするべきではないでしょうか。
 神の国を仰ぎ望み、神と共に歩む者こそ、栄光の生涯を生きるのであります。

[2010年11月21日]


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